30年日本史00970【南北朝初期】常陸合戦 関城・大宝城の戦い*
さて、ここで目線を常陸国に戻し、東国の戦況について追っていきましょう。興国2/暦応4(1341)年11月10日の小田城開城を受けて、関城に関宗祐・北畠親房が、大宝城に興良親王・下妻政泰・春日顕国が、それぞれ立て籠もることとなり、これらに高師冬率いる強大な北朝軍が攻めかかっている状況でしたね。南朝方はまさに風前の灯です。
関城も大宝城も、2年に渡って師冬軍の攻撃に耐え抜いていましたが、興国4/康永2(1343)年に入ってから、師冬軍が両城の水路を絶ってしまいました。北畠親房は必死に結城親朝に援軍派遣を依頼しますが、例の「関城書」が説得力不足のため、援軍は待てど暮らせど現れません。
ここで、大宝城の興良親王のもとに、小山城(栃木県小山市)の小山朝郷から誘いがかかります。「そんな危ないところに籠城するのはやめて、うちに来ませんか」というわけです。興良親王はこれを頼みに、小山城へ転進してしまいます。
小山朝郷は初登場時、北朝方の武将でした(00917回参照)。最近になって南朝方に寝返った人物なのですが、どうもフラフラしていて北畠親房はこれを信用していなかったようです。親房は同年5月6日付けの書状において、興良親王の行動について「粗忽の振る舞い」と断じ、
「今となってはあの人のことなど惜しくもない」
とまで言い切っています。
前述のとおり興良親王は護良親王の子なのですが、母親は親房の妹でした。親房にとって甥に当たる親王が逃亡してしまったことは、関城・大宝城に立て籠もる将兵たちに少なからず動揺を与えたことでしょう。
悪いことは続きます。8月19日に頼みの綱であった結城親朝が、北朝方として挙兵してしまいました。70通もの関城書が無駄になった親房の落胆はいかばかりだったでしょう。
11月11日、師冬軍は2つの城への総攻撃を敢行し、翌12日に関城が遂に陥落しました。城主の関宗祐・下妻政泰は討ち死にし、客人であった北畠親房・春日顕国は辛くも脱出しました。
親房はそのまま吉野に戻ります。南朝の拠点である吉野において、近衛経忠のような和平派が運動していると知り、放っておけなくなったのでしょう。吉野に戻った親房は周囲に主戦論を説いて回り、南朝内部で蔓延していた和平論を駆逐することに成功したようです。
一方、春日顕国は常陸に残って逆転の機会を待っていました。
興国5/康永3(1344)年3月7日。春日顕国は常陸に残った南朝軍を集めて決起し、関城・大宝城の奪回を試み、一時はこれに成功しましたが、その2日後には北朝方に生け捕られ、処刑されました。