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30年日本史00441【平安後期】鹿ヶ谷の陰謀 藤原成親の最期

 次に処分されたのが、藤原成親です。成親は元々は藤原信頼の側近で、平治の乱で処分されることが検討されていましたが、成親の妹が平重盛に嫁いでいたという関係もあって、恩情をもって解官にとどめられたことがありました。
 一度は許してやったはずの成親が、こうして再び平家に歯向かったわけですから、清盛の怒りはすさまじいものでした。
 しかし、またしても重盛が必死になって助命嘆願します。清盛はやむなく成親の処刑を諦め、備前国の児島に配流としました。
 しかし成親は児島に流された後、重盛から衣類を送られるなどの援助を受けていたものの、結局安元3(1177)年7月9日に死去しました。食事を与えられず、餓死させられたといわれています。清盛は、決して成親を許すつもりはなかったのです。
 一方で、俊寛は、別荘を貸していただけで計画の中心人物ではなかったこともあって、平康頼・藤原成経(ふじわらのなりつね:1156~1202)らとともに、鬼界ヶ島に配流となりました。この鬼界ヶ島というのは、現在の喜界島(鹿児島県喜界町)なのか薩摩硫黄島(鹿児島県三島村)なのか伊王島(長崎県伊王島町)なのか分かっておらず、何と3島全てに俊寛の墓があります。
 何もない鬼界ヶ島で、俊寛はいつか赦免され、都に帰れる日を夢見ながら寂しく暮らしました。
 さて、治承2(1178)年に都で赦免に向けた動きがありました。高倉天皇の中宮・徳子が妊娠したのです。徳子のつわりはひどく、占いにより「怨霊のせい」との結果が出ました。これを知った重盛は、
「鬼界ヶ島の3人が生霊となって中宮に取りついている可能性がある。3人を都に戻すべきです」
と清盛に進言しました。このとき、清盛は平康頼・藤原成経については赦免しましたが、俊寛だけは
「私が特に目をかけてやった男なのに、許せぬ」
と言って赦免を出しませんでした。
 さて、赦免状を持った朝廷の使者が、鬼界ヶ島に到着しました。運悪く、使者が最初に見つけたのが俊寛でした。俊寛は書状を受け取って読み始めますが、赦免状には平康頼・藤原成経の名だけが書いてあり、いくら読んでも自分の名がありません。
 このときの俊寛の絶望が、能「俊寛」で描かれています。書状を広げて崩れ落ちる俊寛の姿が何とも哀れな一幕です。
 結局、平康頼・藤原成経の二人は
「都に戻ったら俊寛殿の赦免を願い出てくるから、待っていてくれ」
と言って、先に二人で島を出て行ってしまいました。俊寛は一人取り残されてしまいます。

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