
30年日本史01068【南北朝中期】南朝、京を放棄
第四次京都合戦のときと同じようなことが繰り返されていますね。フィクション作品だったら「最近ストーリー展開がマンネリだ」と批判されそうな気がします。史実だから仕方ないのですが。
正平8/文和2(1353)年6月17日。北朝方が美濃国小島にとりあえずの宿をとっていたとき、京は完全に南朝方の手に落ちていました。
南朝の命令で北朝方の公家の屋敷はほとんど没収されてしまいましたし、南朝方は後光厳天皇の即位を認めず「偽朝(偽の王朝)」と呼びました。その「偽朝」の即位式に出席していた公家はほぼ全員解任されました。
北朝方の公家、洞院公賢の日記には
「建武の新政においては仁恕があった。今回はもってのほかである」
と怒りがぶちまけられています。確かに後醍醐天皇が隠岐から京に戻った際の粛清人事はそこまで苛烈なものではありませんでしたが、この度は「全員解任」というあまりに厳しい仕打ちです。
北朝方も黙ってみているわけにいきません。7月10日、美濃小島に逃れていた義詮は、京を奪還すべく兵を率いて出発しました。7月13日には、北朝方の赤松則祐・石橋和義(いしばしかずよし)が西宮に到着し、京を両軍で挟み撃ちしようという情勢です。
そこで南朝方がとった作戦は、なんと「京を放棄して賀名生に帰る」でした。
なぜかくも簡単に京を放棄してしまうのかよく分かりませんが、その経緯について太平記は次のように記しています。
・南朝軍は、美濃にいる義詮を攻めるべく兵を集めようとしたが、なかなか集まらなかった。
・それどころか南朝軍の兵たちは徐々に領国に去っていき、手薄になってしまった。
・そこに義詮軍や赤松軍がやって来るとの情報が入ったので、これは勝ち目はないとのことで、直ちに京を引き払って主力軍は賀名生へ、山名父子は伯耆国へ、それぞれ帰っていった。
どうも説得力に欠ける説明です。普通は敗北した側から兵が徐々に脱出し、勝利した側についていくものです。なぜ勝利したはずの南朝軍から兵が脱走してしまうのでしょうか。
思うに、京という場所は地理的に攻めやすく守りやすい構造であり、武士は皆それを熟知していたのでしょう。一時的に京を奪回できたからといって、それを維持するほどの軍勢がいないということで、南朝はやむなく京を離れることとなったのでしょう。事実、この頃は「せっかく京を占領してもその後すぐに負ける」という流れがあり、なかなか決着がつきません。
かくして義詮は、もぬけの殻となった京に入京しました。
このような現象があと2回繰り返されます。南朝は京を奪回しても、それを長期間維持することは一度もできなかったのです。