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30年日本史00936【南北朝最初期】常陸合戦 ホイホイ地蔵

 北畠親房は神宮寺城から阿波崎城に逃れたわけですが、そこもすぐに佐竹氏の攻撃を受けて落城してしまいます。神宮寺城と阿波崎城、いずれも東条氏が親房を匿った場所ですが、戦闘に適した場所ではなかったのでしょう。
 この2つの城をめぐっては、次のようなエピソードが語り継がれています。
 神宮寺城が陥落したとき、近郷の名主たちは親房に協力した罪により佐竹氏に捕らえられ、13名が斬首となりました。このときたまたま外出中だった阿波崎村の名主・根本六左衛門(ねもとろくざえもん:?~1338)は、屋敷に戻ってきて仲間たちの死を知ると、自分だけが免れたことを潔しとせず、処刑を済ませ小野川を渡ろうとする佐竹氏の兵たちにわざわざ
「ほーい、ほーい」
と声をかけて呼び止め、進んで処刑されました。
 この声を聞いていた住民たちは、後に斬首された13人の墓として「十三塚」を、さらに六左衛門を弔うために地蔵菩薩像を建立しました。この地蔵は今も「ホイホイ地蔵」という名で残され、稲敷市立歴史民俗資料館にはこの逸話を描いた絵が展示されています。
 さて、阿波崎城を追われた親房はというと、霞ヶ浦を渡り、延元3/暦応元(1338)年11月6日に小田治久の本城である小田城(茨城県つくば市)へと移りました。親房はこの小田城で南朝勢力の結集を呼び掛けていくことになります。
 さて、この小田城というのは、元々は「鎌倉殿の13人」の一人である八田知家が築いた城でした。この知家の子である知重(ともしげ:1165~1229)の代から、小田を領地としているのを由来として小田姓を名乗り始めたと考えられています。小田治久は、その小田知重の5世孫に当たります。
 小田治久は当初は鎌倉幕府に仕える御家人でしたが、倒幕運動に関わった万里小路藤房が常陸国に流罪となると、藤房を手厚く保護して京に送り届けるなど、反幕府方として活動しました。鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇からその功績を評価され、「尊治」から一字を与えられて当初の「高知(たかとも)」から「治久」に改名したという経緯があります。
 ちなみに小田氏といえば戦国最弱の武将ともいわれる常陸の不死鳥こと「小田氏治」が有名ですね。戦国時代の人物なのでだいぶ後で取り上げることとなりますが、これは治久の子孫です。
 親房はこの小田城で「神皇正統記」という歴史書を執筆し始めました。これは神武天皇以来、いかにして皇位が継承されてきたかを記したもので、後醍醐天皇の正統性をアピールする書物となっています。たった一人の手で書かれた歴史書としては、慈円の「愚管抄」(00628回参照)以来2冊目ということになります。その内容がいかに特殊なイデオロギーに貫かれていたかは、また追って説明することとしましょう。

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