30年日本史00882【建武期】第二次京都合戦 義貞二度の敗北
延元元/建武3(1336)年6月2日から22日まで続いた叡山合戦は、結局足利方の敗北に終わりました。
6月30日、勢いに乗った後醍醐方は「今こそ京を奪い返すときだ」と10万騎で京へ攻め寄せました。ここから三度に渡る京都での合戦を「第二次京都合戦」といいます。
尊氏は優れた軍略家でした。わざと小勢を戦わせて退却し、敵が深追いして京の街に入り込んだところで、東寺から用意していた兵50万騎を出撃させたのです。後醍醐方はあっという間に500人以上が討たれ、慌てて退却を始めました。
その後、しばらく合戦はありませんでしたが、7月5日、意気消沈していた後醍醐方のもとに、二条師基(にじょうもろもと:1301~1365)が兵3千騎を率いて到着してきました。二条師基は加賀・越前で兵を集めていたのです。
後醍醐方はこれで士気を取り戻し、7月18日に再び京へ攻め寄せました。後醍醐方は、攻撃に当たって
「前回は京の街を通り抜けて遠く東寺まで攻めたので、狭い道で軍を分断されてしまったのだ。今回は、一隊は二条通りを西へ進み、もう一隊は鴨川の河原を南へ進むことにしよう。それなら軍勢が細かく分断されることもあるまい」
と話し合いました。
ところが、この後醍醐方の作戦は足利方に漏れていました。足利方は60万騎の兵をうまく敵を取り囲むように配置し、敵を次々と倒していきました。
新田義貞・脇屋義助兄弟はかろうじて戦線を離脱し、比叡山に逃亡しました。
後醍醐方は二度も敗れたことで士気が大いに下がりました。このままでは寝返る者が出るだろうと考えた天皇は、延暦寺に対して大きな荘園を寄付し、士気を上げました。
その後、延暦寺から興福寺に協力要請があり、興福寺の僧兵も後醍醐方につくこととなりました。興福寺勢と合流するべく八幡(京都府八幡市)に四条隆資(しじょうたかすけ:1292~1352)が派遣されます。
八幡に到着した四条隆資軍は、北白河に火の手が上がったのを見て、
「叡山から味方が京に攻め入ったようだ。今こそ我々も攻め込もう」
と言って、尊氏らが滞在する東寺に僅か3千騎で攻め寄せました。
東寺の南西の高櫓が簡単に攻め破られましたが、尊氏は少しも驚かずに読経を続けていました。尊氏という人物は、最初に朝敵になったときにはひどく狼狽して出家を志したほどなのに、今回はずいぶん肝が据わっていて落ち着いているようです。同一人物とは思えない描写で、歴史学者の佐藤進一氏は「尊氏は躁鬱症の気があったのではないか」などと評しているほどですが、単に太平記の作者が整合性を確保するための推敲を怠っただけのような気もします。