見出し画像

30年日本史01092【南北朝中期】新田義興謀殺 破魔矢の起源

平賀源内の天才的な知略について、もっと時間をかけて描きたいのですが、いつになることやら。

 竹澤・江戸らが義興の首を持って畠山国清の陣に戻ると、国清は大いに喜びました。竹澤も江戸も功績を称えられ、恩賞をもらい受けましたが、中には
「汚い男の振る舞いだ」
と批判する声もあったそうです。当然でしょう。
 義興の死から10日あまり経った正平13/延文3(1358)年10月23日のこと。江戸高良が領地に帰ろうと矢口の渡しで舟を待っていると、あの義興謀殺に協力してくれた渡し守が酒肴を用意していると言うので、舟の中で宴をやろうということになりました。
 渡し守が迎えの舟を漕ぎ出すと、川の半ばを過ぎたあたりで突然空が曇って雷が鳴り、ひどい嵐が吹き荒れて舟が押し流されていきました。渡し守は慌てて舟を立て直そうとしますが、波にさらわれて舟は転覆し、溺死してしまいます。
 それを岸から見ていた江戸高良は震えながら
「義興の怨霊の仕業だ。ここにいてはいけない」
と言って川から離れ、もっと上流の方で川を渡ろうと馬を走らせますが、途中で稲光が光って、振り向いてみると義興の亡霊がこちらに向かって弓を構えているのが見えました。その亡霊が放った矢に射られた江戸は、落馬して血を吐き、7日間も悶え苦しんだ挙句死んだのでした。
 さらに翌日の夜、畠山国清は不思議な夢を見ました。新田義興が鬼と化して、黒雲の上で太鼓を打っているのです。目が覚めた後、国清がこんな夢を見たと家臣に話しているうちに、突然雷が落ちて入間川の民家や社寺が次々と燃えてしまいました。
 人々は義興の怪異を恐れ、矢口の渡しの近くに新田神社(東京都大田区)を建立しました。義興を祭神とする神社です。
 江戸時代になると、この神社の門前にあった茶店が
「義興の亡霊が放った矢が仇を討った」
という故事にちなんで、矢のお守り(矢守)を販売し始めました。これに目をつけた発明家・平賀源内(ひらがげんない:1728~1780)は、義興の矢には魔除けの効果があるとして「破魔矢(はまや)」として大々的に売り出すよう新田神社にアドバイスしました。
 平賀源内は浄瑠璃の脚本家としても活動しており、義興の最期を描いた「神霊矢口渡(しんれいやぐちのわたし)」を創作しています。自身の創作した演劇とコラボさせる形で新田神社のヒット商品をプロデュースしたわけで、なかなかの才覚だと思います。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集