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30年日本史00746【鎌倉末期】楠木正成登場

 元弘元/元徳3(1331)年8月27日に笠置山に入った後醍醐天皇のもとに、味方する武士が少しずつ集まってきましたが、その人数は予想していたよりも少なく、天皇方の公家や武士たちは焦り始めていました。
 そんな折、ふと後醍醐天皇が
「朕は不思議な夢を見たぞ」
と言い出しました。その夢とは次のようなものです。
 紫宸殿の前庭と思われるところに大きな常盤木(ときわぎ:常緑広葉樹のこと)があり、その南側の枝が特に茂りはびこっています。大臣以下全ての廷臣が北側に列座しており、南側の上座が空席になっています。そこに童子2人が現れ、後醍醐天皇に
「ここが玉座です。しばらく身を隠してください」
と言ってきました。
 この夢の意味を、後醍醐天皇は自ら解き明かしました。
「木の南側の席が空いている。『木へんに南』と書いて『楠(くすのき)』と読む。楠という名の者を呼ぶべしという意味であろう。そういう名の者はいるか」
 廷臣たちが調べたところ、河内国金剛山(大阪府千早赤阪村)に橘諸兄の子孫に当たる楠木正成という土着の武士がいることが判明しました。
 天皇の命により、万里小路藤房(までのこうじふじふさ:1296~?)が勅使として河内に赴き、楠木正成に笠置への参陣を命じることとなりました。藤房は前述の万里小路宣房の子に当たり、この後も後醍醐天皇と行動を共にする側近中の側近です。こんな田舎に公卿が訪ねてくるなど前代未聞の珍事だったでしょう。
 笠置山に呼ばれ、天皇に拝謁した楠木正成は、幕府と戦う術について聞かれ、
「合戦の常は個々の勝敗にこだわらないことです。(たとえ個々の戦いで敗れたとしても)この正成がたった一人生存していれば、陛下の御運は必ず開けると御思い下さい」
と述べました。正成は幕府相手に従来のような決戦形式ではなく、ゲリラ戦術で戦い抜くことをこの時点で決めていたのです。
 それにしても、後醍醐天皇の夢の話はいかにも出来すぎています。後世の創作なのか、あるいは後醍醐天皇自身が楠木の存在を知った上で作り話をしたのか、真相は分かりませんが、いかにも南北朝動乱を駆け抜けたヒーロー楠木正成の初登場シーンにふさわしいストーリーですね。
 ちなみに太平記では「楠正成」と表記するのですが、同時代の史料では「楠木正成」と表記しているようなので、こちらが正しいと思われます。本稿では「楠木正成」に統一することとします。

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