30年日本史01004【南北朝前期】反乱拡大
直義出奔の知らせを受けた幕府の高官たちは、師直の館に集まり
「直義殿がお逃げになったことで、どのような禍いが起こるか分かりません。九州征伐は延期して、直義殿の居場所を調べましょう」
と進言しました。ところが師直は、
「何を大袈裟なことを。たとえ吉野、十津川の奥、鬼界ヶ島や高麗へお逃げになったとしても、誰が直義殿の味方になろうか。味方になった者はすぐに打ち首になってしまうことだろう。しかも将軍のご出発は既に諸国に知らせておる。約束を違えば面倒なことになる。すぐに出発してしまおう」
と述べ、延期の必要はないといいます。ずいぶんと甘く見ていますね。
こうして正平5/観応元/貞和6(1350)年10月28日、尊氏と師直は京を出発しました。この出陣は最初から不吉な予感を感じさせるものでした。
というのも、出陣直後に師直の旗差しを務める兵が東寺の南門前で落馬し、負傷したというのです。驚くべきことに、これは太平記の記述ではなく洞院公賢の日記によるものですから、史実でしょう。
不吉な予感は早速的中します。11月3日に直義は高師直・師泰兄弟討伐の兵を挙げ、11月21日には畠山国清のいる河内国石川城(大阪府河南町)に入ります。石川城は楠木軍討伐の最前線であり、畠山国清はまさにその最前線で戦ってくれていた武将です。彼が直義党についたことは、尊氏・師直にとってあまりに想定外の出来事だったでしょう。
悪いことが続きます。11月12日には、常陸国信太荘(茨城県土浦市)で上杉能憲が直義党として挙兵しました。能憲は義父・重能が師直の命で殺害されたことを強く恨んでいましたから、直義党につくのは当然です。常陸国といえば南北朝の戦乱が特に激しい最前線ですから、ここで反乱を起こされるのは幕府にとって相当な痛手だったでしょう。
この常陸国での反乱に対しては、鎌倉を拠点とする鎌倉府の軍が対応することとなり、11月25日に高師冬・足利基氏が鎮圧に向かいました。10歳の基氏にとってはこれが初陣となります。
一方尊氏はというと、11月19日に備前国福岡(岡山県瀬戸内市)に到着していました。ここから海路で九州に向かう予定でしたが、海が荒れていて船を出せません。
ここで尊氏軍に加わっていた細川顕氏が、突然離脱して領国の讃岐国へと逃亡してしまいました。直義を支援するためとみられます。
尊氏は慌てて顕氏の従兄弟に当たる細川頼春に命じてこれを追跡させましたが、もはや幕府はボロボロの状況です。