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30年日本史01102【南北朝中期】龍門山の戦い 戦況逆転

「仁木義長は嫌な奴」というのはきちんとした伏線になっています。しかし、いかにも戦死しそうな芳賀公頼が戦死しないなど、太平記の時代のストーリーテリングは現代と違いすぎてよく分かりませんね。

 龍門山の戦いに敗れた幕府軍の面々は大いに落胆しました。しかし仁木義長だけが、
「これは面白い。思った通りだ。いっそ住吉・天王寺の軍勢どもも追い散らされて裸になって逃げるとよい。面白い見世物になるだろう」
と言って高笑いしたといいます。仁木義長は以前から幕府内で嫌われ者ですが、こういう性格に原因があるのでしょう。
 正平15/延文5(1360)年4月11日。義詮は苦戦している畠山国清に援軍を送りました。当時天王寺にいた芳賀高名もまた、義詮の命で息子の公頼(きんより)を紀伊に向かわせたのですが、見送りに当たっては
「前回の合戦で敗れたからには、今回再び負けて戻ってくることがあれば敵を元気付けることになる。仁木義長に笑われることは恥だと思え。今回、敵に勝てなければ生きて再び顔を見せるな」
と言って、相当な覚悟をもって送り出しました。いかにも戦死しそうな伏線ですが、そうはなりません。
 さて、南朝方の四条隆俊はまた敵の大軍が攻めてくるとの情報を知り、
「前回と同じ陣で戦うべきか、はたまた平場で戦うべきか」
と諸将と相談しました。特に今回は
「湯川の庄司が北朝方に寝返っているらしい。熊野路から我々に攻め寄ってくるようだ」
との情報も入っているため、前回と同じ陣地では不利だとの意見もありました。
 このように総大将・四条隆俊が弱気になっているのを見て、南朝方から幕府方への更なる寝返りが出ました。
 一部の寝返りが出て元気付けられた幕府方は、再び龍門山の麓へ攻め寄せます。あまりの勢いで南朝方は総崩れとなり、あっという間に龍門山を落とされ、更なる奥地である阿瀬川城(和歌山県有田川町)へと引き籠もりました。こうして畠山国清はどうにか前回の恥をそそいだのでした。
 芳賀公頼が無事に戻ってくると、父の高名は大喜びしてこれを迎えました。
 龍門山の敗戦が伝えられると、観心寺の後村上天皇らはひどく落胆しました。さらに4月12日、
「住吉大社で大きな楠の木が風もないのに突然中ほどから折れた」
という不吉な知らせが入り、南朝一同はひどく不安に襲われることとなりました。

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