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30年日本史00560【鎌倉前期】曽我兄弟の仇討ち 工藤家の分裂
富士の巻狩のさなか、建久4(1193)年5月28日の深夜に大事件が起こります。曽我十郎祐成(そがじゅうろうすけなり)・五郎時致(ごろうときむね)の兄弟が、有力御家人・工藤祐経(くどうすけつね)の寝所に押し入り、工藤を殺害したのです。
御家人たちは騒然となり、頼朝周辺を護衛しました。兄の十郎は仁田忠常に討ち取られ、弟の五郎は生け捕りにされて頼朝から直々の尋問を受けます。
そこで五郎が語った殺害の動機は、頼朝を唸らせるものでした。
話は曽我兄弟の4代祖先の工藤祐隆(くどうすけたか)の時代に遡ります。
工藤祐隆は、伊豆半島の東側の開発領主でした。莫大な土地を開発し、その中心地である伊東(静岡県伊東市)の地を、跡継ぎとなるべき嫡子に譲り、伊東祐家(いとうすけいえ)と名乗らせていました。
ちなみにこの時代は、新たに開発した地域を治めるに当たって、その地名を苗字に据えることはよくあることでした。その結果、父と子が異なる苗字になるケースも多くありました。
工藤家(伊東家)はこれで安泰……と思いきや、伊東祐家は幼い息子を残して早世してしまいます。
工藤祐隆は莫大な領地を誰に継がせるべきか、悩みます。孫は幼すぎて、まだ領地を経営する能力はありません。そこで祐隆がやむなく執った措置が、後の騒動を招いてしまうのです。
祐隆が執った措置というのは、「後妻の連れ子の息子」を養子に迎え、伊東祐継(いとうすけつぐ)と名乗らせて伊東の領地の経営を任せるということでした。「孫が成長するまでのつなぎ」という認識だったのかもしれませんが、こういうことをやると、必ず後になって揉めます。
伊東祐継の領地経営手腕はなかなかのものだったらしく、祐隆はすっかり養子・祐継のことが気に入ってしまいました。そうこうしているうちに、実の孫も成長して来て、元服の時期を迎えます。この孫は「祐親(すけちか)」と名付けられました。
養子・祐継と孫・祐親。限りある領地を、この二人で分け合わなければなりません。そこで祐隆は、
「伊東の地は引き続き養子・祐継に。南側にある河津(河津町)の地を新たに孫・祐親に」
と決めました。河津桜で有名なあの河津です。
祐親は河津の領主となり、「河津祐親」と名乗り始めました。しかし問題は、伊東の方が明らかに河津よりも農業生産力が豊かだったことでした。