見出し画像

30年日本史00937【南北朝最初期】小黒丸城陥落

 この頃、越前では脇屋義助の家臣らが戦闘を有利に進めていました。3人の家臣の活躍をまとめておきましょう。
 延元4/暦応2(1339)年7月3日。畑時能は約300騎で三国湊城(みくにみなとじょう:福井県坂井市)から攻め出て、敵の城12ヶ所を攻め落としました。
 同じく7月5日。由良光氏は約500騎で西方寺城(さいほうじじょう:福井県坂井市)から攻め出て、敵の城6ヶ所を攻め落としました。
 同じ7月5日。堀口氏政(ほりぐちうじまさ)が約500騎で亥山城(いやまじょう:福井県大野市)から攻め出て、敵の城11ヶ所を攻め落としました。
 まさに南朝方の連戦連勝といってよいでしょう。
 これに前後して、総大将たる脇屋義助は約3千騎を率いて、敵の城17ヶ所を3日で攻め落としました。この間、大将7人を生け捕りにし、兵500人を討ったといいます。
 順調に快勝を続ける脇屋軍は、いよいよ北朝方の大将・斯波高経が籠もる小黒丸城に攻め寄せます。
 7月16日。脇屋義助率いる約6千騎が、三方から小黒丸城を包囲しました。戦いが始まる前に、斯波軍の上木家光は高経の前に進み出て、こう述べました。
「この城は、以前新田殿に攻められた際、不思議なご運によって勝利を収めました。しかし、あれは幸運だっただけです。前回戦った相手は皆、東国・西国の兵たちであって越前の土地に不案内な者たちでした。それゆえ、田畑に馬を乗り入れてしまったり、堀や溝に落ちたりしました。名将たる義貞が流れ矢を受けて死んだのも、たまたまです。今や、かつて味方だった者たちが多く敵になっていますから、敵方にはこの城の内部をよく知るものがいるのです。その上、畑時能という日本一の強者がこの城を命懸けで攻めようとしています。今、我々の味方で畑時能と互角にやり合える者はいないでしょう。あなたのような名将がここで命を落とすのは極めて惜しいものがあります。今すぐ、夜闇に紛れて加賀国(石川県)に向かい、より多くの兵を集めてから敵に逆襲を図るのがよろしいでしょう」
 上木の意見はもっともです。新田義貞が敗死したのは偶然によるもので、越前国内で南朝方が優勢なことには変わりありません。この上木の意見には、斯波軍一同みな賛成しました。
 斯波高経は、上木の意見具申を容れて、夜のうちに富樫城(石川県野々市市)へと逃亡して行きました。こうして脇屋軍は遂に越前国から主要な敵を追い出し、小黒丸城を手にしたのです。
 南朝方は圧倒的不利な状況下から、ようやく逆転の光が見え始めてきたわけですが、ここで南朝の中心人物であった後醍醐天皇が病に倒れてしまいます。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?