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30年日本史01148【南北朝後期】苦林野の戦い 芳賀高名離反

栃木県真岡市民会館の前に芳賀高名の銅像があるそうですが、まだ行ったことがありません。それにしてもなぜ芳賀町ではなく真岡市なのでしょう。

 正平18/貞治2(1363)年春頃、基氏の命によって上杉憲顕は信濃から鎌倉に呼び戻され、三度目の関東執事に就任しました。そしてこの人事は基氏が懸念していたとおり、大きなトラブルを招いてしまいます。
 基氏は憲顕を関東執事のみならず越後守護にも任命したのですが、越後守護職を取り上げられた芳賀高名は激怒。さらに高名は宇都宮家の家臣ですから、宇都宮氏綱もまた激怒してしまいます。
 招きを受けた憲顕が信濃から鎌倉に向かおうとすると、宇都宮氏綱・芳賀高名は板鼻(群馬県安中市)で待ち伏せ、これを妨害しようとしました。これを知った基氏は
「なぜこのような狼藉をするのか。思うところがあるなら、訴訟を起こして主張すべきであるところ、合戦を企てるとはけしからぬ。退治せよ」
と号令をかけ、宇都宮(栃木県宇都宮市)への出陣を決めました。
 芳賀高名は
「それならまず鎌倉殿(基氏)と戦おう」
と決意し、長男の高貞(たかさだ)と次男の高家(たかいえ:?~1363)に800騎をつけて武蔵国へ派遣します。その軍勢は正平18/貞治2(1363)年6月17日に苦林野(にがばやしの:埼玉県毛呂山町)に到着しました。
 上杉憲顕の復職は、基氏が幕府の承認を得た上で行った人事です。これに対する反逆は鎌倉府のみならず、幕府への反逆とみなされても仕方ありません。しかし宇都宮も芳賀もなぜか強気で、直義党との戦いについて幕府からお咎めを受けることはないだろうと考えていた節があります。それほどまでに鎌倉府と室町幕府の対立は御家人たちにとって当たり前のものだったのでしょう。
 苦林野には、既に基氏軍8千騎が布陣しています。8千騎と800騎の戦いですから、まるで話にならないはずですが、気力に満ちた芳賀高貞軍は敵軍の真っ只中に突入し、互角の戦いを繰り広げました。太平記は
「野原は血に染まり、池も赤く染まった」
と記述しています。
 芳賀方では弟・高家が討たれましたが、兄・高貞は
「生きるも死ぬも二人一緒だと思っていた弟が目の前で討たれ、その遺体のありかも分からない。このままでいられるわけがない」
と言って、さらに突撃を繰り返しました。

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