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30年日本史01032【南北朝前期】尊氏、南朝に降る

選挙の開票速報を見てます。明日は仕事なので、いつまで見るか悩みどころです。

 尊氏は佐々木道誉・赤松則祐の反乱を鎮圧するために出陣したはずなのに、突如として弟・直義が敵となってしまいました。
 九州にいた直義党の統領・直冬も、この展開には驚かされたことでしょう。せっかく佐々木・赤松討伐戦で活躍して父との和解のきっかけにしようと思っていたのに、父・尊氏と義父・直義が再び対立してしまったわけですから、こうなっては直義の味方として挙兵せざるを得ません。
 直冬は九州尊氏党に属する一色範氏への攻撃を開始します。これを知った尊氏は、正平6/観応2(1351)年8月17日、一転して直冬を九州探題から解任し、討伐命令を出しました。こうして父子は再び引き裂かれることとなり、九州探題の地位は一色範氏へと戻ります。
 8月18日。尊氏は義詮とともに近江国鏡ノ宿(滋賀県竜王町)に出陣し、戦闘準備に入りました。意味不明なことに、佐々木道誉・秀綱父子がその陣に加わりました。
 いやいや、そもそも先般の出陣は佐々木道誉・赤松則祐の討伐のためだったというのに、いつの間にか道誉は尊氏党に戻って、共に直義を討とうとしているのです。道誉が反乱を起こしたというのは、最初から芝居だった可能性が高いでしょう。
 さらに8月25日。ますます意味の分からない事態が発生します。尊氏が赤松則祐を介して、南朝に降伏を申し入れたのです。赤松までもが尊氏の味方になってしまっています。
 この尊氏による南朝への降伏は、後顧の憂いなく直義を討つための恐るべき策謀でしょう。元々、南朝への降伏は直義が尊氏を討つために用いた禁じ手だったのに、今度は尊氏が直義を討つために同じことをやってのけたというわけです。
 ところが近年、中世史学者の亀田俊和氏は異説を述べています。史料を見ていくと、8月6日に尊氏が直義に講和条件を示した際、条件の一つに
「直義が進めていた南朝講和を進める」
との項目があります。つまり尊氏は直義に
「お前が進めていた南朝講和という政策はしっかり引き継ぐから、帰って来い」
と主張しているのです。尊氏の行った南朝への降伏は、直義の政策を引き継ぐつもりで行ったものであり、決して直義を追い詰める目的ではなかったというのです。
 尊氏が南朝に降伏すると、立場が危うくなるのは北朝の皇族たちです。直義は慌てて北朝皇族たちを救うべく、比叡山に亡命先としての受け入れを打診したものの、断られました。以前直義が光厳上皇以下北朝皇族たちの処遇をしっかり考慮した上で南朝と和睦しようとしたのに対し、尊氏はそのあたりをいい加減にしたまま講和しようとしたので、直義がそこを補おうとしているようです。
 この兄弟は対立しながらも、政策を引き継いだり補完したりする不思議な関係にあるようです。

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