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30年日本史00546【鎌倉初期】奥州合戦 頼朝出陣

 文治5(1189)年6月13日。義経を殺害した泰衡は、義経の首を鎌倉に送って恭順の意を示しました。しかし頼朝は
「これまで義経を匿ってきた罪は大きい」
として、泰衡を討つ方針を変えませんでした。
 既に何度か述べておりますが、頼朝の父・義朝は家臣に裏切られ、不意を突かれて討たれたのであって、頼朝は「主君を裏切る家臣」を最も嫌っているわけです。ですから、秀衡から
「義経を主君として仕えよ」
との遺言を受けたにもかかわらず義経を討った泰衡に対して、頼朝はひどい嫌悪感を持ったのではないでしょうか。もちろん「義経を差し出せ」と迫ったのは頼朝自身ですが、泰衡が一戦交える覚悟をもってそれを拒絶していれば、頼朝はそこを高く評価しただろうと思われるのです。
 泰衡にとって、頼朝が許してくれなかったことは計算外でした。頼朝との戦闘に備えなければならない中、泰衡陣営は更なる内紛を起こします。6月26日、泰衡が三男・忠衡と五男・通衡を殺害したのです。吾妻鑑はその原因について
「忠衡が義経側についたため」
と簡単に記述しているだけですが、おそらく父の遺言を破って義経を殺害した泰衡を、忠衡・通衡が糾弾したためでしょう。
 頼朝は後白河法皇に対して奥州藤原氏追討の宣旨を求めましたが、
「泰衡が義経を差し出した以上、泰衡を討つ理由はない」
と言われ、拒否されました。
 困った頼朝に対して、御家人の大庭景能は
「泰衡は鎌倉殿に仕えるべき御家人であり、それを鎌倉殿が懲罰するのにいちいち宣旨は不要であろう」
と述べ、勅許なしに泰衡を討伐することを提案しました。他の御家人たちも次々とこれに同意しました。
 家臣らの決意を知った頼朝は泰衡討伐を決意し、7月19日、自ら軍を率いて鎌倉を出発しました。吾妻鏡には総勢28万4千騎とありますが、さすがに誇張でしょう。
 頼朝が自ら軍を率いて戦に赴くのは、金砂城の戦い以来9年ぶりのこととなります。それほど奥州討伐に力を入れていたとも捉えられますが、むしろ
「もはや他に敵対勢力もなく、鎌倉を留守にしても問題がないから」
というのが真相のようです。

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