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30年日本史00781【鎌倉末期】千種軍、京へ

 島津は馬をゆっくりと歩ませて近寄り、3人がかりで射る弓に長い矢をつがえて引き絞り、放ちました。その矢が田中藤九郎の右の頬から兜の下にかけて射通し、藤九郎は倒れました。赤松軍の大男4人のうちの1人は、こうしていとも簡単にやられてしまったのです。
 舎弟の弥九郎が走り寄って
「兄の仇を決して逃さないぞ」
と言って兄の金棒を取って振り掛かります。頓宮父子もまた、長刀を構えて躍りかかって来ます。しかし島津は慌てず、田中が進み出てくると間合いを取り、後ろに体をよじりながら矢を放ちました。
 一進一退の攻防が続く中、島津の矢が尽きてしまったため、小早川が加勢しようと攻めかかります。田中兄弟と頓宮父子の4人は、鎧の隙間と兜に矢を数十本も射立てられ、立ちすくんだまま戦死しました。この戦いぶりには、敵味方とも大いに賞賛を送りました。
 結局、赤松軍による二度目の京都攻略戦もこうして敗北に終わりました。
 京都攻略が二度に渡って失敗し、焦った後醍醐天皇は船上山で自ら金輪の修法を行いました。金輪の修法とは仏の力を借りて願いを叶えるための儀式であり、神に仕えるべき現役の天皇がこれを行うのは大変珍しいものです。
 この儀式が始まって7日経ったところで星が強く輝いたので、天皇は
「願いが成就する前触れだ」
と喜び、側近の千種忠顕に軍勢を持たせて京に派遣することに決めました。千種軍は当初は千騎程度でしたが、京へ向かう間に次々と援軍が到着して、20万を超える大軍勢に膨れ上がったといいます。例によって太平記の誇張です。
 このとき千種軍に途中で合流した中に、後醍醐天皇の四男である尊澄法親王がいました。
 尊澄法親王は讃岐国に流罪となり、還俗して宗良親王(むねよししんのう)と名乗っていましたが、その後幕府の目を逃れて丹波国篠村(京都府亀岡市)に落ち延びていたのです。その宗良親王と合流したことで、千種軍は錦の御旗を押し立て、さらには宗良親王を全軍の総大将と位置付けることで兵の士気を大いに鼓舞しました。
 元弘3/正慶2(1333)年4月2日に篠村を出発した宗良・千種軍は八幡(京都府八幡市)に陣を取り、戦闘の準備を始めました。一方で、赤松軍は山崎(京都府大山崎町)に陣を構えています。
 一敗地にまみれた赤松軍に代わって、今度は宗良・千種軍が京へ侵攻しようとしています。

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