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30年日本史01131【南北朝後期】第七次京都合戦 今川了俊参戦
やっと京都合戦も最終回です。川中島の戦いは第五次までですが、こっちは第七次まででした。
京の人々は、また戦が始まると聞いて大混乱に陥り、鞍馬や高雄に逃亡していきます。情報収集に努めていた義詮は
「敵の数は思ったほど多くはないぞ。京に入られる前に防げ」
と言って、
・京極高秀ら500騎を忍頂寺(大阪府茨木市)に
・今川了俊ら700騎を山崎(京都府大山崎町)に
・吉良満貞らを大渡(京都府八幡市)に
それぞれ派遣しました。
さて、武将・今川了俊が久しぶりに登場しました。前述のとおり了俊は遠江守護を務めていましたが、細川清氏と仲が良かったため、清氏反逆の際に説得役として京に呼び戻されました。しかし了俊が京に戻った頃には既に清氏は南朝方の先鋒として京を攻撃してくるところで、もはや説得できる状況にはありませんでした。了俊はやむなく、将軍義詮の命を受けて親友・清氏を迎撃することとなるのです。実に皮肉なものです。
ちなみに了俊は後に九州探題として九州を南朝の手から取り戻すという大活躍を見せることや、「難太平記」という著書や「今川状」という教訓書の作者として有名です。さらに了俊の兄・範氏の子孫があの有名な今川義元であり、この後何度も登場することになります。
正平16/康安元(1361)年12月7日。南朝方の作戦会議が開かれますが、そこで清氏は
「京の軍勢の数も、兵の士気も知り尽くしていますので、この合戦は是非私にお任せください。私が山崎へ進んでいけば、忍頂寺にいると思われる京極高秀は何千騎いても決して矢を射かけてこないでしょう。山崎は今川了俊が守っているそうですが、これもまた戦を仕掛けてこない者です。京に入ったら敵が攻めかかって来るでしょうが、馬を突いて敵兵を落とせば、重ねて攻めかかってくる者はいないでしょう」
と述べました。かなりの自信です。
進軍を開始してみると、清氏のいうとおり、京極高秀も今川了俊も全く攻撃して来ませんでした。恐らく京極高秀は清氏を恐れて、今川了俊は親友と戦いたくないという気持ちからでしょう。
頼みにしていた武将が全く戦おうとしないことを知った義詮は、もはや勝てないと見込んで、12月8日未明、後光厳天皇らを連れて近江武佐寺(滋賀県近江八幡市)に逃れました。
その日の夕方、細川清氏率いる南朝軍は難なく京へと入ったのでした。