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30年日本史00433【平安後期】厳島神社と平家納経

 清盛が太政大臣に就任した仁安2(1167)年、清盛率いる平家一同は、厳島神社(広島県廿日市市)に「平家納経」と呼ばれる経典を奉納しました。ここで厳島神社について取り上げておきましょう。
 厳島神社とは、広島湾に浮かぶ厳島にあり、世界遺産に登録されている神社です。厳島は「宮島」とも呼ばれ、一般に「安芸の宮島」として松島(宮城県東松島市)、天橋立(京都府宮津市)と並び日本三景の1つに数えられています。
 厳島神社の平舞台(国宝)は日本三舞台の一つに数えられ、さらに海上に立つ高さ16メートルの大鳥居(重要文化財)は日本三大鳥居の一つに数えられています。
 厳島神社は、推古天皇元(593)年に佐伯鞍職(さえきくらもと)という豪族が、海の神であるイチキシマヒメ(市杵島姫)を祀ったことに始まります。ちなみにイチキシマヒメとはアマテラスがスサノオの剣を噛み砕いて吹き出したときに産まれた三女神の三女です(00071回参照)。瀬戸内海の海上交通を守る神として長らく信仰されてきましたが、平安後期にはすっかり荒廃していたといいます。
 そこに現れたのが、安芸守に就任した平清盛でした。清盛は宋からの輸入品を大宰府経由で福原まで運ぶに当たって、瀬戸内海を守る厳島神社に深く帰依しました。仁安3(1168)年頃に清盛が大規模な社殿を造営し、厳島神社は現在の規模になったといわれています。
 清盛は、その厳島神社にたびたび時の上皇や天皇を招きました。自らの造営した豪華な社殿を見せることで、自らの権威を分からせようとしたのでしょう。しかし自らの都合で行幸先を設定する清盛の横暴に、公卿らは怒りを募らせていくこととなります。
 ちなみに戦国時代に入ると厳島神社は、安芸を拠点とする戦国武将・毛利元就の庇護を受け、再び隆盛を誇るようになりました。
 この厳島神社の宝物殿に保管されている国宝が、平家納経です。
 平家納経は清盛が一門の繁栄を祈って発願したもので、全33巻から成る経典です。平家一門の者が一人一巻ずつを担当し、経典を筆写していきました。清盛はもちろん、その子や弟たちが直筆で書写した貴重なものです。
 各巻とも、表紙や見返しには華麗な挿絵が描かれ、付属の金具、紐、軸も全て当時の最高級の材料が使われ、さらに経典を納める銅製の箱、その箱を納める唐櫃(からびつ)にも豪華な絵が描かれており、一括して国宝に指定されています。平家納経は、当時の最高級の画材と職人を惜しみなく使って絢爛豪華に仕立てた第一級の文化財といえるでしょう。
 現在、厳島神社宝物館に常設展示されているのは平家納経のレプリカですが、たまに実物が展示されるようです。

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