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30年日本史00892【建武期】杣山入城ならず

 延元元/建武3(1336)年10月14日。脇屋義助が杣山城へ入城することとなったため、杣山城を守る後醍醐方の瓜生保(うりゅうたもつ:?~1337)は鯖並(福井県南越前町)まで出迎えに行きました。瓜生保は様々な酒肴を用意して、義助らを歓迎しました。
 ところが、足利方の斯波高経は瓜生保に密かに使者を送り、
「先帝は新田一門を討伐すべしとの綸旨をお出しになった」
と虚偽の情報を伝えて来ました。
 ここでいう「先帝」とは後醍醐天皇のことでしょう。南朝方の後醍醐天皇が、味方であるはずの新田一門を討伐せよなどという命令を出すはずがありませんが、情勢がよく分かっていない瓜生保はこれにコロッと騙されてしまい、義助を案内するのをやめて、杣山城に戻り、城門を閉じてしまいました。
 しかし、この状況を救ったのが瓜生保の弟の義鑑房(ぎかんぼう)でした。義鑑房は鯖並の宿まで出向き、
「兄の保は愚か者ですので、足利家が偽造した綸旨を本物だと思って、背く気持ちを抱いてしまったのです。私が武士であれば、兄と刺し違えて共に死ぬところですが、私は出家の身でありますから何もできません。しかし、兄は事の次第を理解したならば、きっとお味方になるはずです。もし幼い御子がたくさんいらっしゃるなら、一人ここにお留め置き下さい。私が衣の下にしっかりとお隠しして、時が来たら、その御子を奉じて旗を挙げ、ご支援を致しましょう」
と涙ながらに申し立てました。
 脇屋義助はこの義鑑房を信頼し、13歳の息子・義治を義鑑房に預けることとしました。
 太平記を読んでいると、この瓜生義鑑房が本当に信頼できる人間なのか心配になってハラハラしてしまうのですが、義鑑房は信頼できる人物で、新田家を裏切ることはありません。
 こうして、脇屋義助は金ヶ崎へ帰ることとなりました。
 一方、越後を目指した新田義顕の方に目を転じてみましょう。義顕は越後守に任じられていることもあって、越後国で味方を募ろうと考えていました。しかし宿で軍勢を整えているうちに、昨日まで3500騎いた兵が僅かに250騎まで減っていました。後醍醐方が苦戦していると知って、次々に裏切ったのでしょう。
「この人数では、越後まではるばる敵陣を通るのは困難だ。とにかく金ヶ崎へ引き返した方が良いだろう」
ということで、義顕もまた鯖並の宿を出て、金ヶ崎へ戻ることとなります。
 結局、3軍にばらけた新田軍は再び金ヶ崎城に集結することとなりました。

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