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30年日本史00893【建武期】今庄浄慶の妨害

 脇屋義助が金ヶ崎に戻ろうとすると、足利方の今庄浄慶(いまじょうじょうけい)が、近所の野武士を集め、弓矢を揃えて待ち構えていました。これを見た脇屋義助が、
「浄慶というと、今庄久経(いまじょうひさつね)の子ではないか。久経は私の味方として坂本まで一緒にいたので、旧交を忘れていないはずだ。誰か今庄の話を聞いて来い」
と述べると、義助側近の由良光氏(ゆらみつうじ)が一人、今庄に会いに行きました。ちなみに今庄の拠点は現在のJR敦賀駅から2区間の今庄駅(福井県南越前町)のあたりです。
 由良光氏が
「脇屋殿が杣山から金ヶ崎へ行かれるのを知った上で、あなたは道を塞ぐのか。早く弓を伏せ、兜を脱いでお通しせよ」
と大声で言うと、今庄浄慶は馬から下りて、
「我が父・久経がお味方となって新田一族に忠義を尽くしておりましたが、私は父と袂を分かって足利方に付くこととなりましたので、ここをお通しすることはできません。しかし、あなた様と敵対することは全く私の本意ではありませんので、あなた様のお供のうち、名の知られた人一、二名をお出しいただきたい。その首を取って、合戦をした証拠として、我自身の咎を免れたいと思います」
と答えました。何とも身勝手な話ですね。
 由良光氏が帰って脇屋義助にこれを話すと、義助は何とも困った顔になりました。見かねた新田義顕が
「浄慶の言うことは分かるが、今まで一緒にいた兵たちとの関係は親子よりも重い。だからそう簡単に彼らを差し出すわけにいかない。光氏よ、もう一度行って話し合ってみよ。浄慶なおも強硬に主張するならば、私たちも兵とともに討ち死にして、将が兵を大事にするという道理を世間に示そうではないか」
と述べたため、由良光氏がまた浄慶に会いに行ってこのとおり話しましたが、浄慶はなかなか納得しません。光氏は馬から下りて、鎧の上帯を切って投げ捨てて、
「天下のために大切な大将の御身でさえ、兵の命に替わろうとなさっている。まして忠義を尽くすべき家臣の身として、主人の命に替われないわけがない。早く私の首を取って、その代わり大将をお通しせよ」
と言うが早いか、腰の刀を抜いて腹を切ろうとしました。その姿を見た浄慶は、さすがに感じ入ったらしく、光氏の刀を取って、
「なるほどあなたの言うことは道理である。私は罪に問われてもよいので、お通りください」と言って、道の傍らに座ってかしこまりました。
 義助・義顕は心を打たれ、浄慶に太刀を与えました。これを見聞きした人は賞賛を惜しみませんでした……と太平記に書いてあるのですが、私はこれを美談とは思わないですね。単に理不尽な要求を取り下げただけの話だと思います。

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