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30年日本史00932【南北朝最初期】皇子たちの派遣

 吉野では、北畠顕家に続いて新田義貞までもが討たれたとの知らせを受けて、後醍醐天皇を始め、南朝の一同はひどく落ち込んでいました。
 そこに奥州の武士・結城宗広が参内して進言しました。ちなみに結城宗広とは、親朝・親光兄弟の父に当たる人物です。
「北畠顕家卿が三年のうちに二度も上洛できたのは、陸奥・出羽の両国の兵たちが顕家卿に従っていたことにより、賊が隙を突くことができなかったからです。人々の心が変わらないうちに皇子を派遣して、忠義を尽くした者たちに直接恩賞を与えれば、彼らを引き続き従えることができるでしょう」
 確かに、奥州において皇子不在の状況が長く続くと、奥州の豪族たちは足利方ばかりになってしまうでしょう。宗広の言うとおり、皇子を早く派遣した方が良いでしょうね。
 この結城宗広の意見に皆が賛同したので、延元3/暦応元(1338)年9月、後醍醐天皇は3つの地域に3人の息子を派遣することに決めました。
 まず、奥州に派遣されたのは奥州から戻ってきたばかりの七男・義良親王です。
 これに随行したのは結城宗広・北畠親房・北畠顕信らでした。顕信は顕家の弟です。なお、これまで顕家とずっと行動をともにしていた義良親王にとって、奥州下向は3度目となりますね。土地勘もあるし、適任でしょう。
 次に、関東に派遣されたのは四男・宗良親王です。
 これに随行したのは新田義興・北条時行らでした。彼らのミッションは、武蔵・相模を拠点として関東8ヶ国を平定することでした。新田義興の地元はもちろん上野国新田荘(群馬県太田市)ですし、北条時行は長年に渡って鎌倉を支配して来た執権北条氏の末裔なわけですから、これも適任でしょう。
 最後に、九州に派遣されたのは八男・懐良親王(かねよししんのう:1329?~1381?)でした。
 これに同行したのは、五条頼元(ごじょうよりもと:1290~1367)でした。懐良親王はまだ10歳に満たないにもかかわらず征西大将軍という官職を与えられ、伊予国忽那島(愛媛県松山市忽那諸島)に渡り、そこに数年間滞在して味方を増やしてから九州に向かったと考えられています。
 後に九州の帝王として大活躍する懐良親王の生涯については、別途詳しく話す機会があるでしょう。

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