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30年日本史01114【南北朝後期】仁木義長の南朝帰順

「北朝で失脚した武将が南朝方になる」というもう飽き飽きした図式がまた繰り返されました。もううんざりですよね。

 年が明けて正平16/延文6(1361)年。先年の第六次京都合戦で都がすっかり荒廃したことを受けて、
「ぜひ改元すべきだ」
との意見が沸き起こりました。そこで3月29日、北朝は元号を「康安」と改めることとしました。
 元号を改めたまさにその日の夜、不吉にも京で大きな火事が起こりました。
「改元の初日にこんなことがあるとは、元号がよくないのだろう」
との意見が出たものの、既に天皇の決裁を得て全国に通知したものをすぐに取りやめると混乱を招くということで、結局元号は康安のままとしました。
 さて、伊勢長野城に籠もる仁木義長は、もはや兵糧も乏しい上に多くの兵が逃亡し、もはや滅亡を待つだけの状況となっていました。
 このとき、仁木軍には故・土岐頼遠の息子たち3人が加わっていました。今岑氏光(いまみねうじみつ)、外山光明(とやまみつあき)、今岑光政(いまみねみつまさ)の3人です。
 このうち次男の光明と三男の光政は、早々に仁木を裏切っていましたが、長男の氏光だけがなおも仁木方についていました。弟2人は何とかして兄を救いたいと考え、
「城が落ちる前に急いで降伏して下さい。きっと将軍もお許しくださるでしょう」
と書状を送りましたが、氏光はその書状の裏にこんな歌を書いて返しました。
「連なりし 枝の木の葉の 散り散りに さそふ嵐の 音さへぞ憂し」
 一つの枝についていた木の葉は散り散りになるのは当然であり、それを惜しんで誘ってくるのは面倒なものだ、というのです。弟たちはこの返事を見て、
「これほど覚悟がお決まりならば、誘っても無意味だろう」
と涙ぐんだといいます。
 さて、全滅を待つばかりの仁木義長は遂に禁じ手に打って出ます。南朝方に使者を送り、お味方したいと申し入れたのです。吉田宗房が参内して後村上天皇にこれを奏上すると、公卿たちの中には反対意見も多かったものの、天皇の許しが出ました。
 反対意見が多かったのはもっともでしょう。これまでも足利直冬、石塔頼房、山名時氏といった幕府方の有力武将が次々と南朝方に帰順してきましたが、その中でも仁木義長の評判の悪さは異常です。太平記にも
「彼の振る舞いの中で、悪でないものはなかった」
と最大限の悪口が記されているのです。

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