30年日本史00755【鎌倉末期】護良親王の逃避行 十津川滞在
側近数名を連れた尊雲法親王は、山伏に身を変えて熊野(和歌山県新宮市)を目指しますが、その最中、熊野別当の定遍(じょうべん)が後醍醐天皇を裏切り、幕府方についたとの情報が入りました。
困った一行は行き先を変更することとし、元弘2/元徳4(1332)年3月、十津川(奈良県十津川村)に赴きました。宿を求めて近くの民家に立ち寄ったところ、そこの主人は戸野兵衛(とのひょうえ)と名乗り、
「妻が物怪(もののけ)に取りつかれ、苦しんでいるのです。祈祷により救っていただけないか」
と相談して来ました。
さっそく尊雲法親王が中に入って数珠を揉みながら千手陀羅尼を唱え始めると、病人は手足を縮めて震え始め、身体中に汗を流し始めました。さらに祈ると、すっと物怪が退散して行き、病人はたちまち元気になりました。
戸野兵衛はひどく喜び、一行を厚くもてなしました。
こうして一行は10日あまりも戸野家に滞在することとなったのですが、ある日、戸野が炉に木をくべながら世間話をするように、
「大塔宮が熊野に向かっておられるようですが、熊野別当の定遍は幕府の味方です。熊野では助けてもらえないでしょう。この十津川の里にお入りになればよいものを」
と述べました。尊雲法親王が
「もし大塔宮がここに来られたなら、力になるつもりか」
と尋ねたところ、戸野は
「もちろんです。私だけでなく、この村の者はみなお助けするでしょう」
と答えます。
ここに来て遂に尊雲法親王は身分を明かしました。戸野はひどく驚きつつも喜び、
「宮様をこんな粗末な場所に住まわせておくわけにいかない」
と考え、叔父の竹原八郎(たけはらはちろう)とともに黒木御所を作って提供しました。黒木御所とは「黒木(皮を削っていない木材)で作られた住まい」という意味です。現在、奈良県十津川村には黒木御所跡の碑が建てられています。
尊雲法親王は、いつまでも僧の姿をしていては幕府方に見つかりやすいと考え、ここで還俗することとしました。還俗とは出家の逆で、僧侶をやめて一般人に戻ることをいいます。
還俗した尊雲法親王は護良(もりよし)親王と名乗り、さらなる戦いに身を投じていくのでした。