30年日本史00641【鎌倉前期】順徳上皇と土御門上皇の配流
承久3(1221)年7月21日。後鳥羽上皇が最も愛した次男・順徳上皇は佐渡に配流となりました。
温和で平和主義者であった兄・土御門上皇とは対照的に、順徳上皇は若くして過激な倒幕思想の持ち主であり、それゆえに後鳥羽上皇は強い期待を抱いていました。
佐渡に到着した順徳上皇は、
「いざさらば 磯打つ波に こと問はむ 沖のかなたには 何事かある」
(沖のかなたである隠岐諸島に流された父がどうしているか、磯打つ波よ教えてくれ)
と、なおも父を慕う気持ちを詠みました。
順徳上皇もまた、帰洛の許しが出ることを夢見て晩年を過ごし、夢の叶わぬまま、仁治3(1242)年9月12日に44歳で崩御しました。前途を絶望し、額に焼き石を当てての自害であったと伝えられています。
一方、挙兵に関わっておらず後鳥羽上皇に疎まれていた長男・土御門上皇に対しては、幕府は何らの処分を下しませんでしたが、
「私だけ京に残るのは忍びない」
と言って自ら申し出て、閏10月10日、土佐国幡多(高知県宿毛市)に流されることとなりました。土佐に到着した土御門上皇は
「うき世には かかれとてこそ 生まれけめ ことわり知らぬ わが涙かな」
(こんな悲しい思いをするために産まれたというのだろうか。訳も分からず涙が流れてくることだ)
と、父を止めきれなかった自らの運命を悲しく詠いました。
土佐で2年を過ごした後の貞応2(1223)年5月、京により近い阿波(徳島県)に移ることとなり、そこで晩年を過ごし、寛喜3(1231)年10月11日に35歳で崩御しました。晩年を過ごした地は「御所村」という地名となり、現在は徳島県阿波市に編入されています。
さて、関係者の処分が一段落したところで、鎌倉幕府は朝廷の監視を強化するために、新たに京に「六波羅探題」という役所を設置しました。従来は全国に設置されている守護と横並び程度の「京都守護」を設置していたのですが、六波羅探題はそれを大増員したものです。
六波羅探題は「北方探題」「南方探題」の2つに分かれ、北方の方が上席とされました。初代の北方探題は泰時、南方探題は時房です。戦争に勝利した軍がそのまま占領軍として現地に残ったと理解するとよいでしょう。
六波羅探題の仕事は、当初は戦乱の間に御家人が略奪した財宝を寺院に返還するといった不法行為の後始末を行ったり、新たに敗者から没収した領地を検分し、地頭を設置したりといった戦後処理でしたが、後に幕府の目が行き届かない西国を支配するための拠点として、一般政務を扱うようになります。
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