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30年日本史01064【南北朝中期】針摺原の戦い
なぜか九州では「原」を「はる」を読む地名が多いようです。なぜなんでしょう。
足利直冬が九州からの逃亡を余儀なくされ、困ったのは直冬に娘を嫁がせていた少弐頼尚です。直冬自身は長門に渡って大内弘世と合流でき、千人力の味方を得た気分だったでしょうが、筑前(福岡県)を拠点とする少弐頼尚にとっては信頼できる娘婿を失った上に敵に囲まれてしまったわけです。
正平8/文和2(1353)年1月。追い詰められた少弐頼尚のもとに、九州探題の一色範氏が攻め寄せてきました。少弐頼尚が頼った相手はもちろん、南朝方の征西府でした。周防にいた直冬が既に菊池氏と気脈を通じていたおかげで、少弐も征西府を頼りやすかったのでしょう。それにしても、三つ巴の争いというのは実に複雑なものですね。
このとき、南朝方の征西府に君臨していたのは懐良親王で、それを補佐していたのは菊池武光でした。武光にとって少弐頼尚は父の仇でしたが、救援要請を受けてこれを助けようと大宰府に向かいます。
2月2日。針摺原(はりすりばる:福岡県筑紫野市)で菊池武光は見事、一色範氏の軍を破りました。一色は肥前に逃れます。少弐頼尚は菊池の援助に感謝して、
「これより子孫七代に至るまで、菊池に弓を引くべからず」
との起請文を書いて熊野権現に誓いました。
当時、熊野権現への誓いを破ると地獄に堕ちると信じられていたわけですが、この誓いは僅か6年後に破られてしまいます。
ちなみに「針摺原」という地名は菅原道真が名付けたといわれています。
大宰府に左遷された道真は、自らの無実を天に訴えるために天拝山(てんぱいさん:福岡県筑紫野市)に参拝しました。その帰り道、道端で太い鉄を石に当てて研いでいる老人を見かけます。
道真が何をしているのか問うと、老人は
「衣服を縫うための針を作っている」
と答えました。道真はこんなにも苦労して仕事をやり遂げようとしている老人の態度に心を打たれ、「天拝山への参拝は一度ではいけない」と思い、そこから再び天拝山にとって返したといいます。そもそも「天拝山」という名前も、元々は「天配山」と呼ばれていたのが道真の参拝伝説から「天拝山」と漢字表記が変わったものといわれています。
さらに道真はこの地を「針摺」と名付けました。今も針摺の地には、老人が針を摺るのに使ったという高さ2.4mの「針摺石」が立てられています。