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30年日本史01152【南北朝後期】光厳法皇崩御

「地獄を二度も見た天皇」として知られる光厳院の最期です。

 太平記はここで、光厳法皇の晩年の様子について語っています。
 光厳上皇は南朝方に拉致されて賀名生に幽閉されましたが、正平12/延文2(1357)年にようやく解放され、都に戻っていました。その後出家して法皇となり、伏見に隠居したのですが、昔の廷臣が訪ねてくるのも煩わしく感じるようになり、順覚(じゅんかく)という僧一人を連れて山林修行へと出かけました。
 難波港を見物した後、高野山へ行こうと歩いているうち、たまたま南朝の拠点の一つである金剛山のそばを通りかかりました。地元のきこりが
「幾万もの死傷者が出た戦乱の舞台です」
と説明すると、光厳法皇は
「私が一方の天皇として天下を争ったせいだ。私の罪だ」
と悔やんだといいます。南北朝動乱の責任はこの法皇にはないと思うのですが。
 さらに紀ノ川を渡るとき、粗末な橋の上で立ちすくんでいると、ならず者の武士たちが
「みっともない僧がいるぞ。急いでいるから退け」
と言って、法皇を川に落としてしまいます。順覚は膝から出血している法皇を慌てて抱き起し、衣を洗ったといいます。
 高野山に到着した後は、曼荼羅を見たり参籠したりして日を過ごしていましたが、やがて法皇は吉野に入って、後村上天皇と対面します。後村上天皇が
「ああ、あなた様がおいでになるとは、夢でしょうか。どのような思いで御出家なされたのですか」
と聞くと、法皇は涙ながらに
「私は元来、煩悩から離れられずにいましたが、元弘の初めには近江の番場で五百の兵が自害した中に交じり、正平の末年には吉野に閉じ込められ苦しい思いをしました。この世がいかに憂きものであるか身に沁みたので、再度即位したいなどとは夢にも思わず、政治への関心も失いました。天地が一変して新たに天皇も即位したので、ようやくかねてからの思いが叶い、出家遁世することができました」
と語りました。後村上天皇も、聞いていた公卿たちももらい泣きするばかりだったといいます。
 これは平家物語の「大原御幸」(00534回参照)を意識した記述でしょう。建礼門院が語った地獄と同様の思いをした人物として光厳法皇を提示し、この世の儚さを歌ったものと思われます。
 正平19/貞治3(1364)年7月7日に光厳法皇はその波乱の生涯を終えました。歴代天皇のうち、最も悲痛な人生だったといえるかもしれません。

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