見出し画像

30年日本史01038【南北朝前期】直義毒殺

この直義毒殺の場面は、大河ドラマ「太平記」の最終回の名場面でした。真田広之(尊氏)と高嶋政伸(直義)の熱演は屈指の見どころです。

 勝利した尊氏は鎌倉に入ります。元々鎌倉は直義党の本拠地であり、鎌倉公方の基氏や関東執事の上杉憲顕らがいたわけですが、尊氏がやってくる直前に基氏は安房に、憲顕は信濃に、それぞれ逃れていました。
 一方、伊豆北条に逃亡した直義は、気力を失っていたところに尊氏から降伏を呼びかける手紙があり、さらには畠山国清・仁木頼章・義長兄弟が直接迎えに来たこともあって、降伏して鎌倉へと出頭しました。鎌倉入りしたのは、年が明けて正平7(1352)年1月6日のことです。
 もはや直義に従う武士は一人もおらず、座敷牢のような場所で警固の武士を付けられての生活となりました。再起を図ることもできまいとひどく落ち込んでいたところ、2月26日、直義は突如として死去してしまうのです。
 太平記には、
「表向きの発表では、突然黄疸という病気に冒されたとのことだったが、実際には鎌倉浄妙寺で尊氏に毒殺されたのだ」
との記述があります。2月26日は高師直が殺害されてちょうど1年の節目であり、師直殺害を根に持った尊氏は、ちょうど1周忌を狙って弟を殺害したのだという説もあります。
 しかし太平記以外に毒殺を思わせる証拠がなく、同時代の史料では延福寺で病没ということになっており、歴史学界の多数派もそれを信じています。直近の戦で、いずれも戦場に赴かず遠隔地から指揮していたのは、その時点で病が進行していたためと解釈できます。
 尊氏が直義を愛していたことが分かるエピソードとして、
・建武2(1335)年12月、後醍醐天皇の命を受けた新田義貞に追い詰められたとき、「守殿命を落されば我ありても無益なり」(直義が死んだら私だけ生きていても無益だ)と述べたこと(梅松論)
・建武3(1336)年8月17日付けで清水寺に納めた願文に「現世での幸福は直義にお与えください。直義をどうかお守りください」と記述したこと(清水寺に現存する願文)
などがあり、その尊氏が直義を殺すとはとても考えられません。
 一方で尊氏が師直を愛していたことが分かるエピソードとして、
・直義が師直を討とうとした際、「若、猶不叙用して討手を遣はす事あらば、尊氏必ず師直と一所に成りて安否を共にすべし」(なおも直義が師直を討とうとするならば、私は師直と一緒にいて生死を共にしよう)と発言したこと(太平記第27巻)
が挙げられ、結局のところ尊氏は直義・師直どちらも好きなのでしょう。直義は果たして病死なのか毒殺なのか気になるところですが、もはや知る術はなさそうです。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集