
30年日本史00975【南北朝初期】四条畷の戦い 決死の覚悟
先週、南朝の首都・吉野に行ってきました。吉水神社や勝手神社を回ったので、今後は賀名生、金剛寺、観心寺といった他の南朝史跡も回ってみたいです。
さて、二度も正行に敗北したことで、尊氏・直義兄弟の慌てぶりは凄まじかったようで、太平記には
「まるで熱湯で手を洗ったかのようだった」
との記述があります。妙な比喩ですね。
後がなくなった北朝方は、遂に最強を誇る高師直・師泰兄弟を大将とした大軍を派遣します。細川顕氏は敗戦の責を問われて和泉・河内守護を更迭され、その後任に高師泰が就任しました。
正平2/貞和3(1347)年12月14日。高師泰は3千騎を率いて淀(京都市伏見区)に到着しました。そこに北朝が動員した他国からの兵が次々と集まり、2万騎に膨れ上がりました。
12月25日には、高師直が7千騎を率いて八幡(京都府八幡市)に到着しました。またまた動員した兵が次々と集まり、全部で6万騎となりました。さすがの正行にも、今回は分が悪そうです。まあ6万騎は誇張で、実際は1万騎程度と思われますが。
淀・八幡に大量の兵が集まったと聞いて、12月27日、楠木正行とその弟・正時(まさとき:?~1348)は後村上天皇の前に参上しました。
正行が
「私と正時は既に壮年となりました。これから高師直・師泰と身命を尽くして戦い、彼らの首を取るか、私と正時の首を彼らに取られるか、二つに一つの雌雄を決する戦いをしたいと思います」
と涙ながらに述べると、後村上天皇は
「楠木家は父子二代に渡って武功を挙げており、非常に感心なことである。大軍が間もなく全力で攻めてくるそうだから、今回の合戦は天下分け目となるだろう。私はそなたを大切な忠臣と思っている。くれぐれも命を疎かにすることのないように」
と述べ、正行はひたすら恐懼して返事もできなかったといいます。
正行・正時兄弟以下、楠木軍143人は、討ち死にを覚悟して如意輪寺の御堂の壁にそれぞれ名前を書き連ねました。正行はその最後に、
「返らじと かねて思へば 梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる」
と和歌を書き入れました。放たれた矢のように、もはや帰ってくることはないだろうと思うからこそ、「亡き数」、つまり鬼籍に入るであろう自分を含めた者たちの名を書きとどめた、という趣旨でしょう。
さらに正行は鬢の髪を切って仏殿に投げ入れてから吉野を出発しました。極楽往生を願ったのでしょう。