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30年日本史01023【南北朝前期】高師夏の最期

高師冬に続いて師夏が出てきました。実は「師春」「師夏」「師秋」「師冬」の全員が存在します。師春だけは知名度が低すぎて、この連載でも登場しないかもしれませんが。

 師直一家は次々と斬られていきましたが、続いて師直の子である師夏について見ていきましょう。
 師夏は、先般の打出浜の戦いで直義方の西左衛門四郎(にしさえもんしろう)に生け捕りにされ、肘の上下を縛られた状態で護送されていました。
 以前「師直が二条関白(二条良基)の妹を盗んで男子を産ませた」という逸話を紹介しましたね(00946回参照)。史実かどうかは分かりませんが、その男子というのが師夏です。容姿に優れ、心が優しい青年武将だったといいます。当時数え15歳でした。
 西左衛門四郎は、いよいよ師夏を斬らねばならぬ段になったのですが、憐れになり
「命が惜しければ、今すぐ髷(まげ)を落として出家されてはどうでしょう」
と薦めました。出家を条件に助命を交渉してやろうというのです。
 師夏はその返事はせず、
「父上はどうおなりになった」
と尋ねました。西左衛門四郎が、
「執事はすでにお討たれになりました」
と答えると、師夏は
「それでは誰のために命を永らえる必要があろうか。死出の山、三途の川は父上と一緒に渡りたいものじゃ。すぐ急いで首をお斬りください」
と自ら死を願いました。西左衛門四郎は涙を流してしばらくは目も上げられず、後ろに立って泣いていましたが、念仏を唱えて遂に首を打ち落としました。
 こうして、足利政権で最強武将として権勢を振るった高師直は、その一族郎党もろとも滅んでしまいました。
 師直の最期の地は武庫川周辺としか分かっておらず、はっきりした場所は特定されていません。そもそも太平記や徳川光圀の「大日本史」でこき下ろされ、歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」でも悪役とされ、大日本帝国の皇国史観でも侮蔑的に扱われた高師直をわざわざ弔おうとする奇特な人はいなかったようです。
 しかし大正4(1915)年に、兵庫県伊丹市内の師直最期の地として推定された地に「師直塚」が建てられました。その後何度かの移転を経て、現在はスーパーイズミヤの一角にあるようです。
 なお、かつて足利尊氏像として多くの教科書に載っていた騎馬武者の絵は、現在高師直の像であるとの説が有力視されています。日本人のほとんどは、高師直の勇姿を見たことがあるのかもしれませんね。

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