
30年日本史01028【南北朝前期】直義の対南朝交渉 正儀の不満
私がここで書いている南北朝時代の話は、戦前の人が見たら激怒するような内容かもしれませんね。尊氏好きで、親房嫌いなもので。ちなみに楠木党はそこそこ好きです。
北畠親房の指示を受けてこの3条件を北朝方に突きつけたのは、楠木正儀でした。
さて、楠木正儀についてここで詳しく紹介しておきましょう。楠木党といえば、圧倒的知名度を誇る南朝方のスター・楠木正成が有名ですが、その正成には3人の男子がいました。長男・正行と次男・正時は既に四条畷の戦いで戦死しており、残るは三男・正儀です。
正成が「大楠公」、正行が「小楠公」として顕彰され、大日本帝国時代に大いに宣伝されたのに対し、正儀の存在は隠匿されるようになりました。というのも、正儀は南朝にありながら北朝との講和を主張し、それが通らず南朝を裏切ることになるのです。帝国軍人にとって、あの楠木正成の子が天皇を裏切ったというのは言わば黒歴史ですから、闇に葬られることは納得がいきます。
正儀が南朝を裏切るのはここから18年後のことですが、正平6/観応2/貞和7(1351)年5月15日に正儀が3条件を北朝に伝達した時点で、その片鱗は見えていました。洞院公賢の日記によると、楠木正儀は5月19日に驚くべきことを北朝方に伝えてきたようです。
「楠木においては武家に参るの上は、早く大将軍を吉野殿に差し進らさるべし。然らば楠木殊に軍忠を致し吉野殿の通路を打ち塞ぎ、不日に責め落とし申さしむ」
(我々楠木党が北朝方に参上するので、将軍自身が吉野との戦いにご出馬ください。そうすれば我々は将軍に忠義を尽くし、吉野方の行く手を阻み、吉野を攻め落としてみせましょう)
なんと、楠木正儀は南朝を裏切って北朝についてもよいと述べたのです。ただ、洞院公賢も又聞きで聞いたことらしく、「真偽は定かでない」と記しています。
つまり正儀は、南朝内の強硬論に不満を持っていたようです。確かに南朝方は楠木正成・北畠顕家・新田義貞以下有力な武将のほとんどを失っており、戦況逆転は見込めない状況でした。ここでせっかく北朝方から差し伸べてくれた手を突き放すとは、なんとセンスのない奴らだ……と正儀は思ったのでしょう。
実際、正儀がこの時点で南朝を裏切ることはありませんでしたが、裏切りそうな空気を見せてはいたらしく、7月9日に楠木正儀が河内の某所を焼き討ちしたことについて、洞院公賢は日記に
「正儀は吉野方として焼き討ちした」
とわざわざ記しています。「吉野方(南朝)としての行動か、はたまた武家方(北朝)としての行動か」をわざわざ記述しなければならないということは、楠木正儀がどちらにも転び得る微妙な立場にいたことを示しています。
なお、直冬がこれまで「観応」を用いず「貞和」を使い続けていたため、本稿でも元号を3つ並べていましたが、直冬は九州探題に就任して尊氏党と講和したので、6月10日から観応を用い始めました。本稿でも、この年の6月10日以降の記述については元号を2つに戻します。