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30年日本史01113【南北朝後期】仁木討伐 膠着状態

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 尾張・三河で勃発した仁木・畠山の争いは泥沼化してきました。仁木方についた小川中務と西郷頼音が畠山国清軍を挟み撃ちにしており、国清は一切動けなくなりました。
 幕府にとっては、仁木・畠山とも勝手に京を出奔したけしからぬ者たちですが、ここは畠山の味方をすることに決します。
 このとき、三河吉良荘(愛知県西尾市)を拠点とする吉良満貞(きらみつさだ:?~1384)もまた、三河守護・仁木義長に味方して国清包囲網に加わっていました。あの忠臣蔵で有名な吉良上野介の祖先ですね。
 吉良家は元々足利家の分家筋に当たる名家で、源氏の棟梁になってしまった足利家に対して嫉妬にも似た敵対心を持っていました。そのため、幕府と敵対した仁木を支援する気になったのでしょう。
 しかし幕府が仁木討伐軍を繰り出してきて、頼みの小川中務は戦死し、西郷頼音は領地を捨てて逃亡してしまったため、吉良満貞はやむなく幕府に恭順することを決めました。この後、吉良家はずっと足利家に仕えていくこととなります。
 残る反乱軍は伊勢にいる仁木義長の本軍と、それを支援する旧直義党の石塔頼房だけとなりました。石塔は2千騎で葛木山(滋賀県甲賀市)に陣を布き、幕府方がこれを取り囲みます。
 正平15/延文5(1360)年9月28日早朝。石塔軍にいた仁木三郎(にっきさぶろう)は兵を集めて、
「合戦もせず時を過ごすことは、無駄に住民を煩わせることになる。伊勢にいる当主・義長のためにも、早々に合戦をしよう。まずは京極高秀(きょうごくたかひで:1328~1391)のいる市原城(滋賀県甲賀市)を攻めようではないか」
と述べ、軍勢を動かし始めました。ちなみに仁木三郎は義長の兄か弟とみられていますが、詳細は不明です。
 京極高秀は佐々木道誉の三男ですが、このとき率いていた手勢は僅か300騎であり、一方敵の石塔軍は3万です。にもかかわらず、高秀は敵の真ん中を突っ切って斬りまくり、主だった敵の大将首を次々と討ち取っていきました。市原城の戦いは京極勢の勝利に終わったのです。
 敗戦の報が伊勢長野城(三重県津市)の仁木義長のもとに届くと、仁木に仕えていた兵たちは次々と幕府方に寝返ってしまいました。仁木軍は弱体化し、一方で幕府方も伊勢にすぐ攻め込むこともなく、事態はそのまま膠着状態へと陥りました。

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