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30年日本史00930【南北朝最初期】勾当内侍のその後*

 さて、ここで気になるのは義貞の妻・勾当内侍のことでしょう。堅田(滋賀県大津市)で夫と涙の別れを遂げた勾当内侍は、なんと義貞が戦死する直前に、義貞への思いを慕らせ、越前へと向かっていました。
 杣山城まで足を運んだところ、
「新田殿は足羽というところにおられます」
と言われ、勾当内侍は足羽を目指します。
 その途中、浅川にかかる浅津橋(福井県鯖江市)にさしかかったところで、瓜生照(うりゅうてらす)と出くわしました。瓜生照は戦死した瓜生保・義鑑房兄弟の弟に当たります。
 瓜生照は馬から降りて平伏し、
「どこへ行こうとしておいでなのですか。新田殿は昨日の夕方、お討たれになりましたよ」
と報告しました。勾当内侍は僅か1日差で義貞に会うことが叶わなかったのです。
 勾当内侍は胸を詰まらせながら
「お討たれになった場所に案内してください。そして私をそこに捨て帰って下さい。一緒に死んでしまいたい」
と泣き叫びました。
 自害すると分かっていて案内するわけにもいかず、瓜生照は勾当内侍を杣山城に連れ帰しますが、杣山城は義貞がずっと住んでいた場所であり、義貞の書いたものや形見の品を見ているだけで勾当内侍の悲しみはどんどん深まってしまいます。
 勾当内侍は
「ここで四十九日の供養を行いたい」
と言いますが、杣山城にもいつ敵が迫ってくるか分からず、結局京へと連れ戻され、仁和寺の近くの粗末な家で過ごすこととなります。
 勾当内侍にとってここで過ごしているのも苦しく、何気なく陽明門の辺りを歩いていると、そこに人が集まっていました。立ち止まって見てみると、なんと義貞の首が獄門にかけられていたのです。勾当内侍はそれをはっきり見ることができず泣き崩れてしまいます。
 日が暮れて、勾当内侍がまだ泣いているところに近くの寺の僧が声をかけました。そのまま勾当内侍はその寺に世話され、その日のうちに落飾しました。
 その後、勾当内侍は嵯峨の奥の往生院の近くに粗末な庵をもうけ、そこで仏道に明け暮れる日々を送ったとのことです。

藤島神社の敷地内にある野神神社。勾当内侍を祀っている。

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