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30年日本史00533【鎌倉初期】六代の助命

 都にやって来た北条時政は、朝廷との交渉のほか、平家一門の捜索にも努めました。
 さて、寿永2(1183)年の平家都落ちの際、平維盛が妻子を残したまま西走したことは既に述べました。このとき維盛が残した息子が六代(ろくだい:1173~1199?)です。平正盛から数えて六代目(正盛-忠盛-清盛-重盛-維盛-六代)に当たることから、幼名を六代と名づけられました。
 六代は、母と共に郊外の大覚寺(京都市右京区)に潜伏していましたが、この頃、12歳に成長していました。文治元(1185)年12月、六代は遂に北条時政の捜索によって捕らえられてしまいます。
 六代は清盛の直系曾孫に当たるわけですから、本来なら鎌倉に送られて斬首になるところですが、これを必死に助命嘆願したのが文覚でした。文覚はそもそも頼朝に決起をけしかけ、後白河法皇から平家追討の院宣をもらってきた人物ですから、頼朝としても一目置かざるを得ません。その文覚が、北条時政に猶予を頼み込み、
「鎌倉まで行って、頼朝殿から赦免状を受け取って戻ってくる」
と言って鎌倉に走っていきました。
 しかし文覚が鎌倉に行っている間に、時政が鎌倉に戻るべきときがやって来ました。時政としても、六代を放置して京を後にするわけにはいきません。時政は六代を護送して鎌倉へと向かいます。一行が駿河国の千本の松原(静岡県沼津市)までやって来たところで、時政は
「ここまで連れてきたのは、文覚法師が赦免状をもって都に戻ってくるのに行き会うかと思ったためです。しかしあなたを連れたまま足柄峠を越えてしまっては、鎌倉殿(頼朝)がどう思われるか分かりませんので、もはやここまでです」
と言いました。時政としても、六代を助けられる可能性ができるだけ高くなるように努めてきたつもりだったのでしょう。
 六代は12歳の少年とは思えない冷静な態度で、家臣に
「母が悲しまないよう、私を鎌倉まで送り届けたと言っておくように」
などと指示して、処刑を待ちました。斬首役を申し付かった武士が刀を振り上げますが、どうしても斬れず、「お前がやれ」などと押し付け合っていたところに、
「鎌倉殿の赦免状です!」
と叫んで僧が走り込んできました。
 まさに処刑される直前、間一髪で赦免状が間に合ったのです。文覚が配下の者に託して走らせたのが功を奏しました。
 それ以降、六代の身柄は文覚に預けられることとなりました。その後六代がどうなったかは、追って紹介することになると思います。

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