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30年日本史00470【平安末期】南都焼き討ち

 治承4(1180)年12月11日。清盛の命により、五男・重衡が反平家の拠点である園城寺(滋賀県大津市)を焼き討ちし、近江源氏などに打撃を与えました。園城寺といえば、以仁王が最初に立て籠もった場所ですね。さらに12月13日には、反平家の兵らが立て籠もった馬淵城(滋賀県近江八幡市)を攻撃し、これを陥落させます。
 さて、平家として放置できないアンチ平家勢力の総本山があと一つありました。南都(奈良県奈良市)です。
 南都といえば、東大寺・興福寺という2つの大寺院があり、両者とも平家とは険悪な関係にありました。以仁王が南都を目指す途中で戦死したので、これまで戦闘は発生していなかったものの、平家としては早いうちに南都の僧たちを平定しておかなければ、さらに反乱が広がると考えたのでしょう。
 清盛は初め、妹尾兼康(せのおかねやす:1123~1183)に500の兵を付けて南都に派遣しました。まずは平和的な方法で平定するよう指示して、軽武装で送り出したのです。ところが南都の僧兵たちは、兼康の兵60人を捕らえて斬首し、猿沢池(さるさわいけ:奈良県奈良市)の端に並べるという強硬さを見せました。兼康は命からがら帰京し、これに清盛は激怒します。
 清盛は重衡に、南都への本格的な攻撃を命じました。命を受けた重衡は、12月27日、東大寺・興福寺を攻撃します。僧たちが刀剣を手に戦い、激戦となりなかなか決着がつかないまま、28日の夜となりました。
 平家物語によると、重衡が「灯りをつけろ」と命じたところ、配下の兵が周囲の民家に火を放ち、それが折からの強風に煽られ、東大寺・興福寺を大炎上させてしまったといいます。
 一方、史実では重衡は般若寺に放火するよう指示したといわれています。般若寺は東大寺・興福寺に程近い寺院で、ここに放火することで立て籠もる僧兵らに打撃を与えようとしたのでしょう。その火が東大寺・興福寺に燃え移りました。
 いずれにせよ、重衡は東大寺・興福寺に放火しようという意図は持っていませんでした。ところが火は風に煽られ、東大寺・興福寺は全焼し、3500人が焼死してしまったのです。特に聖武天皇の時代に建てられた東大寺大仏殿が全焼したことは、重衡にとって大いなる誤算でした。
 南都を鎮圧することには成功したものの、大仏を焼いたことは平家の権威を大きく失墜させました。知らせを聞いた清盛も驚愕しましたが、重衡を責めることはしませんでした。
 平家物語は、この南都焼き討ちによって平家は神仏に完全に見捨てられたと捉えています。

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