30年日本史00918【南北朝最初期】安保原の戦いと宇都宮城の戦い
斉藤実永の犠牲のおかげで(?)どこが渡れる場所かが特定でき、北畠軍(南朝方)10万騎は利根川を渡り始めることができました。同様に斯波軍(北朝方)8万騎もまた川を渡り始め、川の中で合戦が始まります。
ところが、東側から渡り始めた北畠軍の馬のせいで、川の東側の流れがせき止められ、西側の流れが激しくなってきました。これにより、斯波軍の馬が流速の速さに逆らえず下流に流されていきます。
仲間が次々と川に流されていくのを見た斯波軍は、さすがに戦意を喪失して西岸へと引き返していきます。これを北畠軍が追撃します。
一旦逃げ腰になった兵はもはや使い物になりません。利根川の戦いは北畠軍の一方的な勝利に終わりました。
次いで、延元2/建武4(1337)年12月16日に北畠軍と足利軍が安保原(あぼはら:埼玉県神川町)で激突しました。北畠軍が勝利したようですが、この安保原の戦いの詳細は伝わっていません。
北畠軍が破竹の勢いで進撃してくるのに対し、これを迎え討つのは尊氏の嫡男にして鎌倉を治める足利千寿王です。治めるといってもまだ7歳ですから、実際に指揮していたのは側近たちだったでしょう。
足利方が兵を整えようとしているうちに、宇都宮公綱が北畠軍に加わりました。宇都宮公綱というと、鎌倉幕府の御家人として楠木正成軍と天王寺で対峙した人物ですが(00765回参照)、幕府滅亡後は後醍醐天皇に仕えていたのでしたね。
ところが、その宇都宮家の家臣の中であえて北朝方についた者がいました。芳賀高名(はがたかな:1291~1372)という有力家臣で、現在の栃木県芳賀町を拠点とする武士です。芳賀高名は公綱の子・加賀寿丸(かがじゅまる:後の宇都宮氏綱:1326~1370)という当時11歳の少年を大将に据えて、宇都宮城(栃木県宇都宮市)に立て籠もりました。
宇都宮公綱としては、せっかく南朝方に味方をして功名を立てようとしていたのに、息子が家臣に拉致されて北朝方に加わってしまったわけで、実に恥ずべき事態です。
北畠顕家は2万騎で宇都宮城を攻め、3日間の戦闘で城を攻め落とし、芳賀高名を降伏させたのですが、それから4、5日後に芳賀高名はまた顕家から離反し、足利方につきました。
宇都宮勢の全てを味方に引き入れることには失敗したものの、顕家のもとには次々と味方に参じる旨の連絡が届いていました。北条時行は伊豆国から5千騎で、新田義貞の次男・義興も上野国から2万騎で、それぞれ馳せ参じようとしています。いよいよ足利千寿王の治める鎌倉の攻略です。