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30年日本史00950【南北朝初期】塩冶判官讒死 讒言

この連載は「塗りつぶす系」の知識欲を持つ方(まさに私)にはぴったりだと思います。
時代は「3時間でわかる!」とか「3日でわかる!」みたいな本が売れる世の中ですが、あえて30年かけて全て塗りつぶす気概で頑張っていきます。

 師直が思いついたのは、尊氏・直義兄弟に対して
「塩冶判官に陰謀の企てがある」
と讒言するという手でした。
 この讒言を尊氏・直義が簡単に信じてしまったのかどうか、「太平記」は何も語っていません。しかし讒言の件を聞いた塩冶高貞は、
「もはや逃れられない運命であろう。こうなったら、本国に逃げ帰って一族を挙げて挙兵し、師直の軍を迎え討とう」
といって、興国2/暦応4(1341)年3月27日未明、妻子を連れ、鷹狩りに出かけるふりをして本国の出雲国(島根県)へと逃げていきました。
 塩冶高貞の逃亡を知った師直は
「長々と議論しているうちに女房を逃がしてしまったのは残念だ」
といって、急いで尊氏のもとへ行き、
「高貞の陰謀については急いで措置して下さいと申しあげていたのに、なぜお聞きにならなかったのですか。既に高貞は西国へ逃げ下ったそうです。奴がもし出雲で一族を率いて挙兵したならば、大変なことになるでしょう」
と述べました。尊氏は驚いて山名時氏(やまなときうじ:1303?~1371)と桃井直常を追っ手に指名し、高貞を討たせることとしました。山名は山陽道を、桃井は丹波路を、それぞれ追いかけます。
 丹波路を下っていく桃井が、途中で会う人に、
「不審な者は通らなかったか」
と尋ねると、
「少し前に、鷹を連れた男15騎が、女房を輿に乗せて急ぐようにして通りましたよ」
との答えがありました。それなら追いつけそうだ、と桃井は足を急ぎます。
 播磨の蔭山(兵庫県姫路市)で、遂に桃井は塩冶一行に追いつきました。しかし、そこに高貞はおらず、塩冶の郎党が高貞の妻子を輿にかついでいるだけでした。高貞自身は急いで兵を挙げるため、遥か先を駆けていたのです。
 塩冶の郎党たちは、もはや逃げられないと覚悟を決め、輿を道の傍らにあった小屋に担ぎ込んで、足利方に対して激しく矢を射かけてきました。
 矢を受けた足利方はたちまち11名が戦死しましたが、足利方が大軍なのに比べて塩冶方はたった22人ですから、まるで勝負になりません。塩冶方は劣勢となり、多くの死傷者を出してしまいます。

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