
30年日本史00899【建武期】南北朝時代の始まり
延元元/建武3(1336)年11月4日。光明天皇は、幽閉中の後醍醐天皇に対して「太上天皇(上皇)」の号を贈りました。
さらに11月14日、光明天皇は後醍醐天皇の六男・成良親王を皇太子に立てました。これは非常に意外なことです。尊氏は後醍醐天皇との戦いに勝利したにもかかわらず、まだ大覚寺統を廃止せずに両統迭立を続けようとしているのです。
推測に過ぎませんが、これこそが尊氏と後醍醐天皇との間で交わされた講和の条件だったのではないでしょうか。後醍醐天皇は皇位を剥奪されるものの、その子たちは皇位を継承できるというわけです。そうだとすれば、あまりに寛大な条件だと思います。
ただ、成良親王はかつて足利直義とともに鎌倉に下向したことのある、足利家に養育されたといってもおかしくない皇子です。足利家としては、手なづけることが可能な皇子がいるからこそ、こうした条件を出せたのかもしれません。
こんな高待遇にもかかわらず、後醍醐天皇は
「いったい私にどのような不徳があって、これほどまでに神仏からも見放されて、逆臣のために冒涜されるのか」
と不満をタラタラと述べるのです。これまで相当数の不徳を積んできたと思うのですが、自ら振り返って反省すべき点はないのでしょうか。
12月21日、後醍醐天皇は(本物の?)三種の神器を勾当内侍に持たせて、僅かな供を連れ、女装してこっそりと花山院を抜け出しました。そのまま南へ向かい、たどり着いた先は吉野(奈良県吉野町)です。吉野には吉水院(きっすいいん)と呼ばれる僧房があり、そこの主である宗信法印(そうしんほういん)は僧を集めて
「帝をここにお迎えし、皆でお守りしよう」
と決定しました。
吉水院に入った後醍醐天皇は、さっそく
「帝位は元のごとくに」
と宣言しました。その根拠は「本物の神器は自分が持っているから」というものでした。つまり、持明院統・光明天皇の譲位も、五男・恒良親王への譲位も、どちらも否定してしまったのです。これにより、前述のとおり自称天皇が3人いる状態になってしまいました。
これで南朝が誕生したことになります。厳密にはこれ以降を南北朝時代と呼ぶわけですが、鎌倉幕府滅亡(1333年)から南朝成立(1336年)までの建武期の3年間も、便宜上「南北朝時代」と呼称する人が多いようです。