30年日本史01086【南北朝中期】尊氏の人心掌握術
南朝方に兵が集まらず、北朝方にばかり兵が集まる理由として、
「南朝は天皇親裁であるが、北朝は尊氏が権限を守護たちに委任している」
という点が考えられます。
つまり、戦闘に兵を動員する際は
「この戦で勝利すれば〇〇の土地を与えるぞ」
と約束することで協力が得られるのですが、南朝方は後醍醐天皇のこだわりで
「天皇自らが決裁しない限り、どの所領を誰に与えるかは決められない」
という態勢になっていました。南朝方の大将は吉野(又は賀名生)の天皇に事前相談しなければ何も約束できないのです。
一方、北朝は京にいる尊氏に事前相談しなくても、それぞれの国の守護に一定の権限が委任されていますから、守護がその場で土地の所有権に関する約束をしてよいわけです。これなら北朝方に兵が集まるのは当然でしょう。
さらに尊氏の所領に係る書状として、こんなものが現存しています。
「先般のお前の忠節には感動した。ただ、所領についてすぐに裁定することができないから、とりあえず恩賞の約束だけはしておく。陸奥国信夫郡の余目駿河入道の跡地については心配するな。ついでに、現在の所領の安堵についても問題ない。このことはよく心得ておくように」
これは00958回でも取り上げた書状で、「白川弾正少弼殿」という宛名に対して出された下文です。戦場では、どの土地の所有権が誰に属するかをすぐに判断することができないため、すぐさま恩賞をあてがうことができません。しかし尊氏は、相手が心配しないようとりあえず略式の賞状を与えておいて、後ほど正式な書状を発給するという方法をとっていたようです。
こうした細やかな心配りが、尊氏の兵集めのコツだったようです。
南朝方の北畠親房が上から目線の精神論を振り回して味方を次々と失っていたのに対して、尊氏は武士が最も求める所領をしっかりと与え、かつ相手が安心する形で約束状を出していました。しかも、一旦は南朝方に下った武士であっても謝罪して投降してくればこれを温かく迎え入れるのです。
尊氏は敗色濃厚な状況に陥っても、なぜかいつも逆転できました。それは南朝方から思うように所領が得られず「約束が違う!」と怒り出した武士たちが、尊氏方に寝返ってくれたためであって、その根本には尊氏なりの人心掌握術があったからなのですね。