見出し画像

30年日本史01031【南北朝前期】佐々木と赤松の反逆

世界史にも手を出してみたいんですが、もう「30年日本史」を完成させるだけで手一杯でしょうね。他に何か始めるほどの余暇がない・・・。

 ここからは太平記ではなく同時代の史料に基づいた歴史を見ていきましょう。
 正平6/観応2(1351)年7月28日、「佐々木道誉と赤松則祐が南朝に味方して挙兵した」との知らせを受けた尊氏は、道誉の本拠地である近江へ出兵しました。
 赤松はともかく、尊氏の盟友である佐々木道誉までもが南朝方に寝返ったとは、にわかには信じられません。道誉は則祐から見て舅に当たるので、その縁で寝返ったとも考えられますが、後述するように尊氏と示し合わせた上での虚言の可能性も指摘されています。
 ちなみにこのとき、7月27日付けで尊氏は九州の直冬に「赤松攻めの援軍を命じる」旨の書状を送っており、直冬もその準備のため肥前の地頭に出動命令を下していた史料が現存しています。直冬といえば直義党の統領の一人ですが、この時点ではあくまで父・尊氏に従おうとしていたのです。ある意味、赤松の反乱は分断された父子の絆を取り戻す契機だったかもしれません。
 一方、7月29日に義詮は則祐の本拠地である播磨へ出兵しました。東西で同時に起こった反乱ですから、父が東を子が西を、それぞれ分担したということでしょう。
 この父子の時を同じくした出陣が、直義の不信を誘発してしまいます。つまり京に残った直義は、
「佐々木・赤松の反乱は嘘で、私を挟み撃ちにして討伐するための方便ではないか」
と疑ったのです。実際に尊氏・義詮に挟み撃ちの意図があったかどうかは全くもって謎です。
 翌7月30日、直義は挟み撃ちを逃れるため、越前金ヶ崎城へと出奔しました。このとき直義と行動をともにしたのは、斯波高経・桃井直常・上杉朝定・上杉朝房・山名時氏・畠山国清らです。
 直義出奔を知った尊氏・義詮は、佐々木・赤松討伐を取りやめて慌てて京へ戻ってきました。8月3日に義詮が、8月5日に尊氏が、それぞれ京に到着したとの記録があります。
 8月6日。尊氏は家臣の細川顕氏を越前に派遣し、直義に帰洛を促しました。
「そなたを討とうなどと企ててはおらぬ」
と誤解を解こうとしたのでしょう。直義はこれを受け入れようとしますが、側近の桃井直常がこれを強硬に拒否し、結局直義は戻って来ませんでした。
「どうやら桃井が元凶のようだ」
と判断した尊氏は、直義に桃井と手を切るよう要求しますが、これまた受け入れられません。それどころか、仲介役だった細川顕氏があろうことか直義方についてしまい、京に戻って来なくなりました。
 以上が、史料が語る観応の擾乱第二幕の始まりです。太平記以上に分かりにくく、不可解です。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集