30年日本史00040【縄文】大森貝塚の発掘
当時、東京大学理学部には生物学科が開設されたばかりでした。植物学の教授には矢田部良吉(やたべりょうきち:1851~1899)が内定していましたが、動物学の教授が未定でした。ちょうどそこに、アメリカの著名な動物学者が来日したわけですから、文部省にとってみればこれを何とかして教授に就任させようと考えるのは自然のなりゆきでした。
明治10(1877)年7月。モースに対し、東大から正式に教授就任の懇請がありました。借金までして来日したモースですから、ここで職にありつけるならばありがたい話です。まして、東大側の提示して来た待遇は破格のものでした。モースは迷った末に2年間の契約を結びます。
東大教授に就任したモースは、さっそく精力的に研究活動を始めます。
9月12日。モースは助手1人と学生2人を連れ、大森貝塚へ向かいました。このとき同行した学生の1人が、後に昆虫学者として活躍する佐々木忠次郎(ささきちゅうじろう: 1857~1938)でした。
発掘の結果、掘り出されたのは大量の土器片と、加工痕のある骨でした。1回目の発掘では、我々がよく知る形の縄文土器はまだ見つからなかったようです。数日後に行われた2回目の発掘で、縄目の文様を持つ完全な形の土器が見つかりました。これをモースが「Cordmarked Pottery」と呼び、それが「縄文土器」と翻訳されるようになりました。
それにしても、本来動物学者であるはずのモースが、土器についても深い関心を持って報告書を作成していることは驚きです。
さて、モースが発掘を行った大森貝塚の場所については、現在2つの説があります。
1つは、東京都大田区山王1丁目3番1号のNTTデータビルの敷地内。線路横に「大森貝墟(おおもりかいきょ)」と書かれた記念碑が建てられており、NTTデータビルの脇に、その碑を見学するための小道が設けられています。
もう1つは、東京都品川区大井6丁目21番の品川区立大森貝塚遺跡庭園。庭園の中には「大森貝塚」と書かれた記念碑が建てられています。
ここで「おやっ」と思った方がいるかもしれません。大森は大田区内のはずなのに、なぜ大森貝塚が品川区内にあるとの説が主張され得るのか。確かに、そもそも「大田区」という地名自体、「大森」と「蒲田」を合成して生まれたものですから、大森貝塚は大田区内にあるべきです。
しかし、モースは
「大森駅で降りてから線路沿いに半マイル(800メートル)歩いた」
と記録しているだけで、その貝塚の正確な住所については記しておらず、どうやら住所を調べもせず「大森貝塚」と名づけてしまったようなのです。
大森駅から半マイル北上すると、大田区を出て品川区内に入ってしまいます。よって、大森貝塚が品川区内に所在することはおかしなことではないようです。
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