30年日本史00964【南北朝初期】金谷経氏の奇略
脇屋軍に長年従事していた南朝方の兵たちは、金谷経氏(かなやつねうじ:?~1351)を大将として、兵船500艘余りで川之江城を守ろうと漕ぎ出しました。一方、北朝方は一千艘の大軍です。
両軍は海上で潮と追い風に乗って押し合いながら戦いました。両軍とも一切退かず戦い続けましたが、一日中戦っていると、急に風が吹いて南朝方の船はことごとく西へ吹き戻されてしまいました。これでは川之江城を守ることはできません。
夜になって戦いがやんだとき、南朝方の兵は口々に
「これほど運のないときに戦っても勝てるはずがない。一旦退こうではないか」
と進言しますが、大将の金谷経氏は、
「運を悪いというなら、そもそも頼みにしていた脇屋殿が病にかかって亡くなられたわけで、そのような運に恵まれない我々が生き永らえたからといって、どれだけのことがあるか。命の限り戦って武士の面目を保とうではないか」
と言って、夜間に敵の本陣である鞆の浦(広島県福山市)に攻め込みました。
この奇襲は大成功でした。ちょうど城中に人がいない時間帯だったので、南朝方は次々と敵を撃破して、鞆の浦をあっさり陥落させました。
ところが、しばらくすると金谷経氏の陣に、
「川之江城が陥落し、北朝方の手に落ちた」
との知らせが入ってきました。敵陣を上手く陥落させたと思っていたら、肝心の自軍の城がやられていたのです。このままでは、次に大舘氏明の立て籠もる世田山城(愛媛県今治市)が攻撃を受けるのは明らかでした。金谷方の兵たちが
「同じ死ぬのなら、自分の国で屍をさらしたい」
というので、金谷経氏は兵を引き連れて瀬戸内海を渡り、伊予へと戻ります。
ここで金谷経氏の取った作戦は、あまりにも危険なものでした。
「なまじっか何の役にも立たない寄せ集めの軍勢で合戦すれば、臆病武者に引きずられて、味方が負けてしまうこともあるだろう。むしろ一騎当千の兵を選んで敵の大軍を駆け破り、細川と取っ組んで刺し違えてやろう」
と言って、兵の中から精鋭300騎を選び出し、細川軍と相まみえたのです。わざわざ味方を減らす行為が戦を有利にするとは思えず、実に不思議な判断です。
金谷軍300騎と細川軍7千騎の戦いが始まろうとしています。
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