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30年日本史01096【南北朝中期】筑後川の戦い 起請文の効用

やっと始まりました。筑後川の戦いです。態度をコロコロ変える少弐氏に対して「起請文を突きつける」という作戦。なかなか面白いですね。
さて、本日をもってこの連載は丸3年となりました。アクセスして下さる皆さんのおかげでモチベーションを保つことができました。4年目もよろしくお願いします。

 正平14/延文4(1359)年7月。準備を整えた菊池武光は、少弐・大友を討つべく4万騎の大軍で出陣します。総大将はもちろん懐良親王です。一方、少弐頼尚もまた、6万騎もの大軍でこれを迎え討ちました。数の上では少弐方が有利ですが、相手はあの勇猛果敢な菊池軍ですから、油断はなりません。
 7月16日。菊池武光は高良山(こうらさん:福岡県久留米市)に布陣し、少弐頼尚は味坂(あじさか:福岡県小郡市)に布陣しました。筑後川を挟んで向かい合う格好です。菊池武光は軽く少弐軍を挑発してみますが、相手は警戒して出てきません。
 にらみ合いが続く中、菊池武光はこんな計画を立てました。
・武光率いる決死隊5千人が夜間にこっそり筑後川を渡り、夜明け前に味坂の敵陣に奇襲をかける。
・決死隊による夜襲に合わせて、残りの軍が筑後川を渡って突撃する。
 7月19日夜、武光は自らの手勢5千騎程度で筑後川を渡り、少弐の陣へ押し寄せました。
 ところがこの作戦は少弐方に露見していました。少弐頼尚はすぐに軍議を開き、
「菊池勢といきなり全力で戦うのではなく、深くまで引き付けてから戦ったほうがよい」
との結論に決しました。これにより、少弐軍の主力部隊は北に逃げ、大保原(おおほばる:福岡県小郡市)にまで退却しました。なかなか慎重な態度です。
 筑後川を渡った菊池武光は、敵がさらに北上して陣形を整えているのを確認しました。あの敵と戦うには、さらに宝満川(ほうまんがわ)を渡らなければなりません。いわば少弐軍は平地での戦いを避け、沼や川を利用して狭いところに敵を引き込もうとしているわけで、その手に乗るわけにはいきません。
 武光も容易に軍を動かせなくなり、そのまま16日間もの間、睨み合いが続くことになりました。
 両軍とも近い距離にいながら、なかなか戦を始めることができません。そこで菊池武光は一計を案じました。旗の竿の先に、敵から見えるように一枚の起請文を取り付けたのです。
 それは6年前の針摺原の戦い(01064回参照)の際に、少弐頼尚が一色範氏に襲われたのを菊池武光が助けた際、少弐頼尚が書いたものでした。
「これより子孫七代に至るまで、菊池に弓を引くべからず」
というものです。
 当時、起請文に書かれた誓いを破ると地獄に堕ちると信じられていたわけですから、これを見た少弐軍の動揺は相当なものだったでしょう。

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