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30年日本史00927【南北朝最初期】藤島の戦い 燈明寺畷遭遇戦

 義貞のもとに馳せ参じた軍勢はあまりに多く、諸将はきらびやかな鎧兜に身を包んでいました。その堂々たる風格から、人々は
「尊氏卿の天下は必ずや義貞朝臣に奪われるだろう」
と話し合いました。
 延元3/建武5(1338)年閏7月2日。いよいよ足羽城を攻めようというので、指揮官の一人である上木家光(うえきいえみつ)が、人夫に埋め草などを運ばせて来ました。義貞が馬に手綱をかけて乗ろうとしたところ、この馬が突然嫌がって跳ね上がり、暴れ出します。傍にいた馬丁は踏まれて重傷を負いました。
 さらに行列の先頭にいた旗持ちが足羽川を渡ろうとすると、その馬が突然川の中で伏せってしまい、旗が水に濡れてしまいます。
 このような不吉な出来事があり、兵たちはこの戦いに不安を感じ始めますが、既に戦場が目の前に迫っているのに今更引き返すわけにもいきません。
 一同は、燈明寺(とうみょうじ:福井県福井市)の前で3万騎を7隊に分け、7つの城を攻めることになりました。7つの城の中でも、すぐに攻め落とせそうに見えたのが、平泉寺の僧たちが籠もる藤島城でした。
 新田軍の数万の兵が藤島城に迫ります。新田軍が櫓を倒して城内に入ろうとすると、僧たちはそれを突き落とします。藤島城は新田軍に完全に包囲されながらも、意外に善戦を続けました。
 義貞自身は燈明寺の前で待機し、藤島城の戦況の報告を受けていましたが、意外にも敵がしぶといと聞いて、前線を視察しようと馬に乗って僅か50騎の手勢を連れて藤島へと向かいました。
 ちょうどそのとき斯波軍の方では、小黒丸城から細川出羽守と鹿草公相(かぐさきんすけ)の二人が、藤島城を支援しようと300騎で駆け付けようとしていました。
 運悪く、この義貞の50騎と細川出羽守の300騎が燈明寺畷(とうみょうじなわて)と呼ばれる四つ辻で出くわしてしまうのです。
 義貞軍は3万騎もいるのに、よりによってたった50騎で、しかも軽武装で視察に出かけたところで敵と遭遇するとは、何という不運でしょう。燈明寺一帯は味方の軍がひしめき合っていたので、まさかこんなところに敵が通りかかることはあるまいと高をくくっていたのでしょうが、油断大敵とはこのことです。

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