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30年日本史01071【南北朝中期】決戦間近

この回で遊和軒朴翁という僧が初登場しますが、この人が太平記の作者だという説があります。

 正平9/文和3(1354)年春。東国情勢はだいぶ落ち着いてきました。4月に新田義宗・脇屋義治・宗良親王が越後国で蜂起したものの、北朝方にすぐに鎮圧されました。
 となると、幕府にとって残る懸念は領国の伯耆に逃亡した裏切り者の山名父子です。尊氏は義詮を播磨国(兵庫県)に派遣して、山名討伐に当たらせることとしました。
 これを知った山名時氏は、
「我々もしかるべき大将を取り立てて合戦をしなければ、味方は増えないだろう」
と思い、なんと足利直冬に声をかけます。直冬といえば、一色氏に九州を追われて周防まで逃げてきたところでしたね(01063回参照)。
 直冬は
「将軍と直接戦えば、子として父を攻めるという罪を犯すことになる。一方で、帝に背くということは家臣として主君をないがしろにすることとなる。それならば、吉野に行って帝のお許しを得て、その宣旨に従って京を攻めるべきであろう」
と述べ、お忍びで吉野へと向かいました。そこで後村上天皇に謁見するわけです。
 南朝方の武家伝奏・洞院実守(とういんさねもり:1314~1372)が、
「すぐに尊氏討伐の命令を出しましょう」
と進言した一方で、綸旨の発出に猛反対したのが、遊和軒朴翁(ゆうわけんぼくおう)です。朴翁は天竺(インド)の故事を示しながら
「父に対して不孝な者が、主君のために忠臣となることはない。今回、直冬は父を滅ぼすために帝の勅命を受けようとしているが、このような者を取り立てて大将としても上手くはいかないだろう」
と述べました。この後、直冬は結局父に勝てないことから後付けで作られた話かもしれません。
 ともあれ、洞院実守の意見が容れられ、直冬にすぐさま綸旨が出されました。これにより、いやでも南北朝の対決の空気がみなぎります。
 10月18日。義詮は赤松則祐や佐々木道誉らを率いて、播磨弘山(兵庫県たつの市)に陣を布きました。一方、京に残った尊氏は、敵の大軍が間もなく近づいてくるというのに、平気で母・清子の十三回忌の法要をやっており、実に呑気なものです。
 10月28日、南朝・後村上天皇は拠点を賀名生から河内金剛寺(大阪府河内長野市)へと移しました。山奥から多少都会に出てきた格好です。戦闘指揮のため本腰を入れたのでしょう。

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