30年日本史00017【旧石器】神の手と呼ばれた男、藤村新一*
ここで、アマチュア考古学者(というよりは発掘屋といった方が良いでしょうか)、藤村新一(ふじむらしんいち:1950~)なる人物を紹介しなければなりません。
藤村は小学生の頃から考古学に興味を持ち、学校の裏山で土器を拾っていたといいます。高校時代には相澤忠洋の業績を知り、憧れを抱くようになります。そして22歳のとき、たまたま行った「宮城県考古展」で運命の出会いを果たすことになります。
「宮城県考古展」は、東北大学考古学研究室の後援によって行われた展覧会でした。この頃東北大学には、明大を飛び出した芹沢長介がおり、芹沢門下では
・藤沼邦彦(ふじぬまくにひこ:1942~)
・岡村道雄(おかむらみちお:1948~)
ら若手研究者が続々育っていました。
藤村は宮城県考古展に毎日通いつめ、開催後援者の一人だった藤沼邦彦と出会います。藤沼から旧石器についての説明を受け、旧石器発掘を志すようになるのです。
と、以上の経歴は、全て藤村本人の回顧によるものです。今や、この話は嘘や誇張に塗り固められた経歴ではないかと指摘されています。というのも、他ならぬ藤沼邦彦が、
「藤村はそう言ってるんだけど、実は、私にはそんな記憶が全くないんだ。会期中、毎日通っていたなら、さすがに記憶に残ってるはずなんだけどなあ」
と言っているのです。このエピソードは、「相澤忠洋が少年時代、帝室博物館で守衛から説明を受けた」という話に感化されて作り出したフィクションではないでしょうか。また、高校時代の藤村を知る教師も、
「彼から考古学のことなんて聞いたこともない」
と証言しています。藤村がいつ考古学に目覚めたかは謎に包まれているのです。
昭和49(1974)年。藤村は、勤めていた計器会社のパート従業員から、
「考古学に興味があるんなら、詳しい人を紹介してあげるよ」
と言われ、地元の考古学者・鎌田俊昭(かまたとしあき:1946~)を紹介されます。
鎌田は明大出身。あの戸沢充則の弟子ということになりますが、卒業後は実家の寺を継ぎ、考古学を生業としたわけではないので、一応アマチュア考古学者ということになるでしょうか。
この出会いさえなければ、あの悲劇は起きなかったのかもしれません。藤村は、鎌田という相棒を得ることで、ゴッドハンドと呼ばれるほどの「大発見」を次々と成し遂げることになるのです。
藤村は鎌田を訪問するに当たり、自ら発掘した石器をいくつか見せました。それが旧石器時代の地層から発見されたと聞いた鎌田は驚き、「出土した場所に案内してほしい」と依頼します。そこで藤村が鎌田を連れていった場所こそが、後に「第二の岩宿」と呼ばれ、国指定史跡となった座散乱木(ざざらぎ:宮城県大崎市)でした。