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30年日本史00994【南北朝前期】観応の擾乱始まる

いよいよ連載1000回が近づいてきましたね! 何も特別なことは予定していないのですが。

 桟敷倒壊事故の余波が冷めやらぬ正平4/貞和5(1349)年閏6月のこと。いよいよ足利直義と高師直の戦い「観応の擾乱(かんのうのじょうらん)」が始まります。
 妙吉の讒言を真に受けた直義は、兄・尊氏に相談せずに高師直・師泰の討伐を決めてしまいました。直義が相談した相手は、家臣の上杉重能・畠山直宗のほか、粟飯原清胤(あいはらきよたね)、斉藤常喜(さいとうつねよし)といった顔ぶれでした。実行役に指名されたのは、大高重成と宍戸朝重(ししどともしげ)でした。
 直義は、武装させた兵たちを待機させておいて、師直を呼び出します。師直は全く警戒せずのこのこと直義邸にやって来て、供の者を待たせて一人で客間に座りました。
 もはや師直の命はここまでかと思われたときに、なんと直義家臣の粟飯原清胤・斉藤常喜が直義を裏切ってしまいます。心変わりした粟飯原が師直にそれとなく目配せしたところ、師直もその意味を察して席を外すふりをして、馬に飛び乗って今出川の自邸に帰っていってしまいました。
 その夜、粟飯原と斉藤の二人が師直の館を訪ね、
「今回の三条殿(直義)のご計画はこのようなものでした」
と説明したので、師直は褒美を与えて
「これからも殿中の様子について、いろいろ教えてほしい」
と言って2人を帰しました。
 師直はこれ以降、厳しく用心して、近隣の民家に兵たちを宿泊させて警備に当たらせ、仮病を使って家に引きこもりました。
 一方、河内国石川城(大阪府河南町)で楠木党討伐の仕事に当たっていた高師泰も、師直の派遣した使者によって謀殺未遂事件を知りました。7月21日、直義は師泰に使者・飯尾宏昭(いのおひろあき)を送り、
「師直の行いは何につけ愚かであるから、しばらく政務への関与をやめさせたところだ。ついては、今後はそなたを執事に任じたい。まずは財政について処理してほしい」
と述べました。師直を取り逃がしたため、せめてその兄の師泰を味方につけようとしたのでしょう。
 師泰は
「お返事はそちらに参上して申し上げます」
と言って、城を畠山国清(はたけやまくにきよ:?~1362)に任せて京に戻ってきました。
 しかし師泰は、直義の懐柔に乗ることはなかったのです。

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