見出し画像

30年日本史01074【南北朝中期】神南の戦い 山名優勢

「太平記が平家物語を意識していると思われる箇所」をまとめてみると面白いかもしれませんね。

 赤松勢の後藤基明は
「誰か生き残る者がいるなら、私の先駆けの証人になってくだされ」
と叫んで、山名勢の中へたった4人で斬りこみました。山名師義が
「我々の前陣は戦い疲れているようだ。後陣が入れ替わってあの敵を討て」
と叫ぶと、山名勢の中から手練れの若武者たちが次々と馬から飛び降り、太刀を抜いて斬りかかったので、さすがの後藤基明も討ち死にしてしまいます。西の尾根は山名勢の勝利となりました。
 一方、南の尾根にいた細川頼之隊は、特に傾斜が急な場所にいたので敵が登ってくることはないと思っていたところ、敵方から山名時氏隊を先頭に、和田・楠木隊3千騎が駆け上ってきました。
 これまた狭い場所での大混戦となり、両軍から夥しい戦死者が出ました。浮足立った細川勢は敵にやられて討ち死にしただけでなく、谷底へ雪崩のように落ちて大量の死者を出したといいます。太平記は倶利伽羅峠の戦い(00477回参照)を意識して描写しているようですね。
 西も南も山名勢が優勢な中、赤松則祐の甥・朝範は袖に着けた笠印を隠して敵軍の中へ紛れていました。敵将がいれば密かに近づいて討とうという作戦です。ちょうどそこに敵の大将・山名師義が兵を率いて進軍するのを見つけたので、たった1騎で斬りかかっていきました。
 朝範は師義に走り寄って、その兜を激しく打ちますが、致命傷を与えられません。そのうちに師義の傍にいた若武者たちが朝範に斬りかかり、朝範は耳の上に傷を負って尻もちをつきました。敵軍の真っ只中で尻もちをつくとは、もはや絶体絶命の状況ですが、若武者たちは朝範が死んだと思って放置したため死なずに済みました。大将格の大物であることがバレていなかったのでしょう。実に幸運な男です。
 山名勢が迫ってくる中、情けないことに義詮の周囲にいた兵の多くが逃げ出してしまい、義詮は僅か100騎ばかりの兵に守られている不安な状況になりました。佐々木道誉と赤松則祐の2人が義詮の傍で
「何かあれば我々が討ち死にいたします」
と言って護衛に当たっていますが、一目見ただけで大将・義詮であることが明らかです。
 義詮の身に山名の手が迫ろうとしています。

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集