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30年日本史01126【南北朝後期】頓宮の裏切り

福井県小浜市が登場しました。オバマが大統領に就任した際、同名だと盛り上がっていた街ですね。

 さて、若狭国に逃れた細川清氏のその後を見ていきましょう。
 若狭国は清氏の領国であり、清氏家臣の頓宮四郎左衛門は以前から小浜(福井県小浜市)に在国していました。清氏は小浜城に入城し、城の構えを見て
「ここなら簡単に攻め落とされることはあるまい」
と安心しました。
 一方、京では清氏討伐の大将として六角氏頼が選ばれました。六角氏頼が3千騎で越前から、仁木三郎が2千騎で丹波から、それぞれ小浜に向かいます。南朝方に寝返ったはずの仁木三郎がなぜここで幕府軍の一員として顔を出しているのか理解に苦しみますが、まあ三郎なんて星の数ほどいるでしょうから、既に登場した仁木三郎とは別人かもしれません。
 清氏は幕府軍を嘲笑するかのように、
「何と哀れな者たちだ。この程度の敵なら、馬の口取りの者を数人で差し向けるだけで十分だ。まずは敦賀(福井県敦賀市)の浅倉某を討ち払え」
と命令し、家来をたった8人派遣しました。その8人は敦賀に行って、海岸沿いの民家十数軒に火をかけ、鬨の声を挙げました。六角方の浅倉某の兵300騎は、
「清氏軍が攻めてきたぞ。きっと大軍だ。一旦退け」
と言って、戦いもせず逃げていきました。
 浅倉軍の逃亡を現地の人々が面白おかしく話題にしたので、怒った六角氏頼は正平16/延文6(1361)年10月29日、椿峠(福井県美浜町)へと攻め寄せました。これを見た清氏は小浜城に頓宮四郎左衛門を残し、弟の頼和とともに500騎で六角軍に立ち向かっていきました。
 ところがここで番狂わせが起こります。なんと小浜城を任せていた頓宮四郎左衛門が突然主君を裏切り、清氏らの後方から追撃してきたのです。太平記は
「腐った縄でもどうにかすれば馬をつなぎ止められるものであるが、それでもつなぎ止められないのはこの頃の武士である」
と上手い言い方をしています。
 清氏は前方の六角軍と後方の頓宮軍に挟まれてしまった格好です。兵たちは大混乱に陥り、次々と逃亡していきます。
 清氏は弟の頼和とたった2騎で逃亡し、
「むしろ京や摂津に逃げた方が見つかりにくいだろう」
と相談し合い、連れ立って京へと進みました。確かに越前や若狭にいるよりは、人口の多い京の方が潜みやすいかもしれません。
 ちなみに同時代の史料によると、清氏は10月25日に幕府が派遣した石橋和義の軍に敗れたとあります。なぜ石橋軍の活躍を太平記が描かなかったか不明ですが、いずれにせよ清氏は圧倒的不利な状況に追い込まれたのでした。

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