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30年日本史01034【南北朝前期】近江八相山の戦い

「30年かけて日本史を全て語る」よりも、「5年で昭和史を語る」「5年で戦後政治史を語る」の方が早くバズることができたかなあ、と後悔しております。

 直義から和睦を拒否された尊氏は、いよいよ戦いに討って出ます。しかし直義党にも石塔頼房や桃井直常といった戦上手がおり、そう簡単に撃破できるものではありません。
 正平6/観応2(1351)年9月10日。石塔頼房が伊勢から近江に侵攻し、佐々木道誉の軍勢を撃破しました。さらに頼房は近江八相山(滋賀県長浜市)にいた直義党の畠山国清・桃井直常らと合流しました。近江国鏡ノ宿(滋賀県竜王町)にいる尊氏軍1万騎から見て、琵琶湖を隔てた反対側への布陣です。
 ところが、直義本人はというと相変わらず消極的で、金ヶ崎から動こうとしません。
 9月12日。尊氏軍は近江八相山の直義党に戦を仕掛けました。この戦いについては詳細が分かっていませんが、尊氏軍が勝利したようです。
 勝利した尊氏は弟に講和を持ち掛け、9月20日から両者の講和交渉が始まりました。10月2日には兄弟が直接対面し、尊氏の方から仲直りを持ち掛けますが、強硬派の桃井直常が講和交渉を壊してしまいます。交渉を担当していた直義党の細川顕氏・畠山国清は、直義を見限り尊氏方についてしまいました。
 結局、八相山の戦いに敗北した直義党は大幅に戦力を失ってしまい、もはや見る影もありません。金ヶ崎城に立て籠もっていても勝ち目がないということで、桃井の薦めを受けた直義は、10月8日に越前を出発しました。駿河、足柄と東海道を東下して、向かう先はもちろん鎌倉です。
 尊氏は10月21日に空席だった足利家執事の職に仁木頼章を充てて体制を整え、11月4日に畠山国清らを連れて鎌倉討伐に出発しました。直義の行き先が鎌倉であることはさすがに分かっていたのでしょう。一方、義詮は京を防備するために都に留まりました。
 直義が鎌倉に入ったのは11月15日のことでした。当時鎌倉を治めていたのは初代鎌倉公方・基氏ですが、当時11歳の基氏に実権があるはずもなく、決定権を握っていたのは補佐役たる関東執事の上杉憲顕だったでしょう。憲顕は直義党の筆頭ですから、当然に直義を快く受け入れたはずです。
 太平記は、鎌倉に着いた頃には直義軍は50万騎に膨れ上がっていたと記述しています。さすがに誇張でしょうが、東国に直義党が多かったことは事実であり、越前ではなかなか集まらなかった軍勢が鎌倉に到着するまでに膨れ上がっていたことは事実でしょう。
 それにしても、尊氏にとって弟のみならず実子・基氏までもが敵となったわけで、彼らが立て籠もる鎌倉に攻め込まなければならないとは、ひどく気の重い仕事だったことでしょう。

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