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30年日本史01116【南北朝後期】倉懸城の戦い 山名の快進撃

数ある旧国名の中でも「美作国」ってあまり存在感ないですよね。岡山県の内陸の方です。

 正平16/延文6(1361)年6月24日。近畿圏を大地震が襲いました。
「山は崩れて谷を埋め、海は傾いて陸地になった」
「神社仏閣は倒れ、牛馬や人が死傷すること幾千万であった」
という太平記の記述は、多少誇張はあるかもしれません。しかし寺社の記録や三条公忠(さんじょうきんただ:1324~1384)の日記「後愚昧記」にも地震があった旨が記載されているので、大地震と死傷者の発生自体は史実でしょう。
 そんな中、地震の影響をさほど受けずに済んだのでしょうか、幕府を裏切り南朝方についた山名時氏・師義父子は7月12日、出雲・伯耆・因幡3ヶ国の軍勢3千騎を率いて美作に向かって進軍を始めました。
 美作守護は赤松貞範で、幕府方(北朝)の人間です。貞範がまだ播磨にいて戦う準備もできないうちに、山名父子は
・広戸掃部助(ひろとかもんのすけ)が守る名木城(なぎのじょう:岡山県奈義町)
・同じく広戸掃部助が守る奈義仙城(なぎせんじょう:岡山県奈義町)
・飯田一族が守る篠向城(ささぶきじょう:岡山県真庭市)
・有元佐顕(ありもとすけあき)が守る大別当城(おおべっとうじょう:岡山県奈義町)
・同じく有元佐顕が守る菩提寺城(ぼだいじじょう:岡山県奈義町)
・小原信明(おばらのぶあき)が守る小原山王城(おばらさんのうじょう:岡山県美作市)
・大野一族が守る大野城(おおのじょう:岡山県美作市)
の7城を全く交戦することなく降伏させてしまいます。次に
・林野城(はやしのじょう:岡山県美作市)
・妙見山城(みょうけんさんじょう:岡山県美作市)
の2城については戦闘となり、赤松方は20日余り持ちこたえたものの、説得を受けて山名方に寝返ってしまいました。
 最後に残ったのが、倉懸城(くらがけじょう:岡山県美作市)でした。ここを守っていたのは佐用貞久(さようさだひさ)や有元佐久(ありもとすけひさ)ら300騎です。これに対して攻める側の山名父子は3千騎ですから、まるで勝負にならなさそうです。
 赤松一族は、この倉懸城をどうにか救出したいと考えました。赤松貞範・則祐兄弟らは、
「山名勢がこの城に攻撃を開始したら、その後ろを突いて奇襲してやろう」
と考え、近くの城に陣を布きました。
 それにしても、
・当初北朝方だったが今は南朝方に寝返っている山名
・当初南朝方だったが今は北朝方に寝返っている赤松
の両者が戦っているわけで、実に分かりにくい戦いですね。

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