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30年日本史00752【鎌倉末期】下赤坂城の戦い 陥落

 幕府方の兵たちは崖をよじ登り、やっとの思いで登り終えて下赤坂城の塀に手をかけようとしたところ、一枚だけに見えた塀は実は二重になっており、外側だけが外れる仕掛けになっていました。四方の塀に取り付いた千人もの幕府方の兵は一斉に崖を落ちて行き、700人以上の死者を出してしまいました。
 三度目の大敗を喫した幕府軍はさすがに慎重になり、次なる作戦を4、5日かけて考えました。思いついたのは、崖を登って塀を熊手で引っ張るという作戦でした。
 塀の近くまで登った兵たちが、熊手を伸ばして塀に取りつけたところで、塀の上から長いひしゃくが突き出てきました。ひしゃくがくるっと回り、落ちてきたのはなんと熱湯でした。矢の数に限りがあることから、楠木軍は豊富にある水を利用して攻撃して来たのです。この攻撃により、2300人が大火傷を負いました。
 圧倒的な人数差でありながら、攻撃にことごとく失敗した大仏貞直は、もはや力攻めを諦め、兵糧攻めに切り替えることとしました。もはやプライドを捨てて確実に勝てる手段を取ろうとしているわけです。
 大仏がこの作戦に決めてから20日も経ったところで、赤坂城の兵糧が底をついて来ました。楠木軍は遂に降伏を決めます。
 しかし、ただでは負けないのが楠木正成です。正成は
「私は自害したと見せかけて脱出する。東国勢が引き上げたのち、また討って出る。これを繰り返して東国勢を疲弊させるつもりだ」
と述べ、脱出の準備にかかりました。
 元弘元/元徳3(1331)年10月21日。正成らは城中に穴を掘り、近くで死んだ敵の死体を数十体入れて焼きました。その夜、仲間数名と密かに城を脱出し、城から十分遠ざかってから、残った者が城に放火しました。
 焼け落ちた城に入った幕府軍は、数十体の焼死体を発見し、
「正成は自害したようだ」
と判断してしまいます。ここから数ヶ月に渡り、正成は生存を隠して活動することとなります。
 なお、この下赤坂城の陥落に伴い、後醍醐天皇の長男である尊良親王(たかよししんのう:1306?~1337)は幕府軍に捕らえられ、御家人の佐々木道誉(ささきどうよ:1296~1373)の預かりの身となりました。尊良親王は当初は後醍醐天皇とともに笠置山に立て籠もっていたのですが、笠置陥落によって下赤坂城に赴いていたのです。
 その後、尊良親王には土佐への流罪という判決が下ることになるのですが、後ほど詳述します。

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